万事快調と男は笑う







「最近、好調ですね」
「そう見えますか?」
 曇り空のケンブリッジをタクシーは走る。後部座席に座る男と青年はそれぞれ窓の外を見ていたが、その片方が声をかけたのだった。
 東洋人は顔つきが若く見えると言う。しかし二人は実のところ親子ほども年齢が離れていた。まるでそのように見えないのは男が若く見えるせいか、青年の大人びた雰囲気のせいだろうか。運転手には分からない。ただボストンからここに到着するまで、二人はほとんど話さなかった。その沈黙を破ったのが、さっきの科白だった。
「好調?」
 バックミラー越しに男がちらりと見る。運転手は何も聞いていないふりをして運転に集中した。
 後部座席に座る西原誠司と海道ジンはちらりと横目に視線を合わせ、ふ、と鼻先だけで嗤った。
 ボストンのサイバーランス支社からジンの住むケンブリッジまで戻る最中だった。運転手が思い返したとおり確かに静かな車内だったが、音楽がなくても沈黙でもジンは窓の外の景色を眺めるだけで十分な気分になる。話なら十分にした。二日かけて大がかりな調整をした後だった。喋り尽くした感があった。
 しかし思わず声をかけた。支社があるとは言え、西原の渡米は最近頻繁だ。飛行機の中で眠り、昼夜逆転をねじ伏せて精力的に仕事に取り組む。
 そして滞在時に必ず一度はジンと直接会い、トリトーンの調整を行った。
 西原は野心家であるし、見ても分かるとおり仕事熱心いや仕事馬鹿と言ってもいい男だ。ジンがサイバーランスのテストプレイヤーでなくなった後も自分の携わったLBXが世界で活躍するものであれば放っておけないだろう。
 しかし直接の動機、最大の原因はトリトーンがあの山野淳一郎博士の整備を受けて性能をアップさせたあのブリントンの事件で、以来敵愾心とプライドを隠さず西原はこのLBXの調整に全力を注ぐ。統括責任者ではなく一人の技術者としての西原の姿がそこにはある。今日もその帰りだが。
 いつにも増して饒舌だった西原がタクシーに乗り込んだ途端静かになって、その反動が働いたようだ。ジンの口は思わず開き、さっきの問いである。
「トリトーンが好調なら私も調子がいい」
 横目に見ると、うわべの返事をした男は、ふ、と笑って何でもないことのように言った。
「恋人と別れました」
「…またか」
「またか、とはお言葉だ」
「事実でしょう」
 仕事のできる男だ、西原誠司は。サイバーランス社のテストプレイヤーになってからの一年間、本社には幾度となく足を運んだし、A国留学後も頻繁な遣り取りがあったが、しかしジンは社長の顔以上に西原のことばかり記憶にある。どの調整で、どのパーツを交換した時に、どんな会話を交わしたかその真剣な目や語りを思い出せる。この男はたいそうな情熱家だ。仕事の面では。
 仕事人間とはこういう男のことを言うのだ。LBXに関する限り西原の評判はいいし、ジンも評価し信頼している。しかしプライベートでの彼の株価は常に底辺を這っている。一人の女性がいたとして、その中で急上昇した株価が鋭角な二等辺三角形を描くように暴落した噂をジンは幾度となく耳にしていた。
 珍しい話ではない。自分の周囲を飛び交う噂も、西原自身よく承知していた。
「変えようがないんですよ」
 西原は窓の外に視線を戻す。
「私の中で優先順位は揺るがない。仕事と、LBXだ。日々進化する世界の、私は最先端にいたい。死ぬまでね」
 人の幸福にケチをつけるつもりはない。ジンは何も言わず、確かにこういう男だ、と納得した。
「これでも」
 と西原は言葉を続ける。
「付き合う時に話をしているんですよ。仕事が大事だ、支えてほしい、とね」
「恋人と家政婦は違う」
「同じ事を言われました」
「言われただけ?」
「平手打ちも」
 窓に顔を向けると、笑いましたね?と西原は自分でも笑いを含みながら言った。
「私のことを完全に理解してくれるパートナーが公私共にいてくれたら更に先の風景が見えるかもしれない」
 たとえば君、と指さされる。ジンは片眉をつり上げ、視線はいつものままながら声にわずかな呆れを含ませて返した。
「その時は、僕という得がたいビジネスパートナーを失うことになる」
「ははっ」
 急所を突かれた、それなのに男は愉快そうに笑った。
「違いありません。一本取られましたね」
 君なしに私の成功はあり得なかったのですから、と。社ではなく自分のことを西原は語った。それは一言の呟きに過ぎなかったが、人生を変えられてきた自分もまた誰かの人生を変えるのだと、改めてジンは悟った。常に自信に満ちあふれているこの男でさえ、か。
 アパートの前でタクシーを停めると、西原の、らしくもない溜息が聞こえた。しかしジンは聞かなかったふりをして歩道に足を下ろす。
「では」
「ジン君」
 低い声が呼び止める。
「来年ははたちですね」
「ええ」
「その時は飲みましょう」
 グラスを傾ける仕草をする。
「大人の愚痴に付き合ってください」
「それはどうか」
 そんな姿は見たくないのだが、という言外の気持ちを込めて視線をやると、西原は二回りも歳の離れたジンに対してまるで自分が弟であるかのような顔をした。じゃあ、と繋がれる言葉。
「じゃあ…LBXの話を」
「僕とあなたはいつもその話ばかりだ」
「ジン君」
 男は疲労の影を滲ませて、口元になんとか笑みを浮かべる。
「私は君と飲める日が来るのを、君が十三歳の頃から待ってるんです」
「失礼します」
 通りに出てドアを閉めると、開いた窓からまた西原が顔を覗かせた。
 だが、いつもの顔だ。
「今年も君の活躍が世間を騒がすのを待っていますよ」
 ジンも自信たっぷりに頷き返す。
「当然です」
「それじゃあ」
 そう言って手が振られた。いつもの西原誠司だった。
 野心家。
 仕事できる男。
 プライベートの評価は最低でもそれを笑っている男。
 しかし完璧に強い訳ではないのだな、とジンは遠ざかるタクシーの後ろ姿を見送った。
 アパートの上階、二日離れていただけなのに懐かしい我が家への帰還。洗面台で手を洗ったついでに、掌が水をすくった。顔を洗うと何故か溜息が漏れた。濡れた顔をタオルで拭い、また声にならないそれ、一つ。
 鏡の中のジンは気の抜けた顔をしている。
 シャツのボタンを一つ、二つと外し、ぬるい空気を追い出すために窓を開けた。通りを見下ろすと次から次へと走り去るタクシー。しかし西原の乗ったそれはもう遥か遠く、ボストンを目指して通りの彼方に消えた。
 自分も自分でまた、寂しいのかもしれない、とジンは苦笑し初めて飲むアルコールの味を想像した。ともあれお酒は二十歳になってから。できれば愚痴以外の話に花が咲くことを祈ろう。ジンはコップに水を注ぎ、軽く掲げる。
 乾杯の練習、という訳でもないが。
 苦笑を映した水を、ジンは一気に飲み干した。



2012.8.25