この世の最後の静寂の名前







 眠れない夜だった。誰もが眠れないはずだった。真実を知った誰もが胸の中に渦巻く感情の叫びに苛まれ、瞼を開いていた。そのくせ静かな夜だった。感情は怒号のように口をつくことはなかった。誰もそうさせない。そうはできない。あのバンが沈黙を守っているのだから。
 憎らしいほどに、静かだ。
 静けさと屋内の闇に閉じ込められて息ができなくなるような気がして、ジンは瞼を開く。建物の中は空調が効いて本来ならば快適な温度のはずなのに、膝や肘の関節がひどく冷えていた。腕を撫でさすりながら横目にドアを見つめる。密閉されて届かない通路の明かりが、しかしジンには見えるようだったし、すぐ隣の部屋にいるバンの息遣いも聞こえてくるようだった。ジンは通路からバンの部屋の扉を見つめる自分を想像した。ノックができるのか。返事があるのか。そのドアは開かれるのだろうか。
 手をおろし、じっと耳をすませる。かすかな音が聞こえる。硬質で耳慣れた音が。LBXを整備する音。小さなパーツやドライバーの立てる音は、いつでも彼らの心を鎮めてくれる。愛機を整備する時間は、LBXプレイヤーにとって至福の時間の一つだ。
 ――彼はLBXを愛している。
 ジンは暗闇の中で壁の向こうに思いを馳せた。
 ――彼の父親が発明した、彼の父親が与えてくれた夢を。
 その一番信じた人が砕こうとしたものを。
 ジンは唇を結び、暗い壁を見つめ続けた。
 胸の奥には今でも生々しく感じる重たい痛みがあった。愛する肉親に裏切られる痛みをジンは知っている。前に歩き出しても、傷痕は消えることはない。過去は自分の一部となって存在しつづける。見るたびに思い出す、それは自分が今生きている証拠でもある。今の自分として存在する起点でもある。
 ――彼も、背負ってしまった。
 消せない傷痕。
 埋められない何か。
 真夜中にふと思い出す空虚。恐怖を感じる間もなく飲み込まれる暗闇の息苦しさ。
 いつかは慣れるだろう。空虚を追い払って眠りにつき、痛みを越えて朝を迎える。時間は傷痕に新しい皮膚をはり、朝日を正面から受け止める笑顔を作る。いつかは、時が癒す。それに彼の父親は生きている。山野淳一郎と山野バン、この二人の親子にはまだチャンスがある。ジンとて、一時は憎悪にも近い敵意をもって接したバンと親友になった。人と人との関係は変わる。絆があればこそ、なおさら…。
 ふとドアの向こうの気配が薄暗くなった気がした。ジンは立ちあがり、ドアを開けた。
 通路の向こうに遠ざかる山野淳一郎の背中が見えた。ジンは黙ってそれを見送り、彼とは反対の方向に歩き出した。
 NICS本部は公園に囲まれている。その緑の向こうにNシティの夜景はあった。空は星もなくのっぺりと暗い。しかしNシティの夜景は星の海のように輝いている。人工の光の織り成すミルキーウェイ。銀河のような光の洪水。外周の通路から見える夜景を眺めながら、ジンはあてどもなく歩く。通路は足元をぽつぽつと青い常夜灯が照らすだけで、夜の空を夜景を見下ろしながら歩くようだった。
 ふと、足が止まった。立ち止まった瞬間には名前を呼んでいた。
「ユウヤ」
 最初からそこにいたはずなのに、こんなに近づくまで気づきもしなかった。ユウヤは窓に正面から向かい、Nシティの夜景を見つめていた。その顔が振り向くと、瞳の中に残った夜景が瞬いていた。
「起きていたのか」
 ユウヤは静かに頷き、ジン君も、と尋ねる。ジンは黙って隣に並んだ。
 近くて遠い夜景。真夜中が近づいても止むことのない人の賑わい。生活の暖かさ。銀河のように広がる光はそういうものだった。真実を知らない無邪気な光。彼らが守ったもの。そう胸を張ってもいいはずなのに、二人の間には沈黙しかなかった。
 しかしユウヤは当たり前のようにジンの隣に存在していた。沈黙が圧迫するでなく、確かに存在していながら空気のように静かな気配。居心地がよく、逆に不安になる。ジンは手を伸ばして自分と同じくらいの背の肩に触れた。ユウヤの方が驚いてジンを見た。
 驚いたのは一瞬だけだった。すぐにユウヤは表情を緩め、ジンの手が離れるのを見送った。
「本当はね」
 ぽつりとユウヤは呟いた。
「色々、話したいことがあったんだ」
「僕に…?」
「うん。ジン君に聞いてもらいたいこと、色々」
 二人は重なり合った眼差しを再び夜景に投げた。
「どんな?」
「今日の大会のこと。本当に楽しかった。僕、出てよかった」
 ユウヤは軽く目を伏せ、口を噤んだ。次の言葉を待ったが喋り出す様子はなかった。
 自分の気持ちを喋ることがない。遠慮をしている訳ではないことは、他の人間と話す様子からも分かる。ただしジンに対しては、ユウヤは一歩引いているところがあった。心を許していないのではない。むしろユウヤが一番心を許しているのはジンだ。
 ジン、だからこそ。
 自分の命を救ってくれたジンだからこそ、隣にいてもユウヤは従者のようにひかえる。敬愛が自然とそのような態度を育んだ。
「聞かせてくれないか」
 ジンが言うと、かすかに惑うような瞳が振り向いた。
「大会のこと、君が思ったこと、聞かせてくれ」
 微笑み促すと、ユウヤはおずおずと微笑を浮かべ、あのね、と話し出した。

 話は本当に尽きることがなかった。初めて作ったコスプレ衣装のこと。アリスに勧められるまま色々着替えてみたもの。その恰好で登場した衣装は限られているから、ジンも中継ビジョンでは見ることのできなかった姿について、一つ一つ頷きながら話を聞く。
 それに中継ではよく聞こえなかったオタクロスとの会話も。ユウヤを突き刺した言葉の数々に今日のような夜でなければちょっと顔を貸してもらうところだが、でも、とユウヤは言う。
「あの人が空っぽだって言ったから、僕は自分の心の中にあるものに気付いたんだよ。本当に空っぽだった僕の心に、今は何が入っているのか。心も、みんながくれた思い出も、LBXが好きという気持ちも…」
「あの時の君の言葉は、しっかり聞こえた」
 ジンが言うと、ユウヤは目を細めて頷いた。
「ありがとう、見ていてくれて」
「…本当は会場を抜け出していた。街中の中継ビジョンで……」
「ううん、どんなに離れていても関係ないよ」
 ユウヤは首を振り、細めた瞳の奥からきらきらと何かを溢れさせて言った。
「君がくれたリュウビで僕は勝った。それを君がちゃんと見届けてくれていた……。本当に嬉しいよ」
 ありがとう、ジン君、と囁いてユウヤの手は目元を拭った。
 ジンは肩を触れさせた。とん、と触れて離れた肩が今度は双方から触れ合った。
「…本当はこんなこと話してる場合じゃないのにね」
「いいんだ」
 ジンは強く言う。
「僕は今夜、この話が」
 ――君の声が、
「聞きたかった」
「僕も」
 静かな、消えてしまいそうな声でユウヤが言う。
「君に、一番に聞いてほしかった」
「忘れない」
 ユウヤは頷く。
「ありがとう…」
 触れ合っていた肩は静かに離れ、ユウヤは歩き出す。
「ごめん、立ち話させてしまったね」
「ユウヤ…」
「僕はもう少し散歩をしてから眠るよ」
 軽く駆けるように二、三歩離れて、それからまた歩き出す。姿勢のよい後ろ姿。ユウヤはもう真っ直ぐに歩いている。俯くことなく。
 ――本当に……?
 角を曲がって消えそうになる後ろ姿を、ジンの足は自然と追いかける。
 ――本当にそうだろうか。
 重たい痛みが、呑み込まれそうな空虚がないと、本当にそう言えるのか。
 異様に気が急いた。走って追いかけ角を曲がった先に窓はなく、常夜灯の青白い光に照らされてユウヤは黒く蹲る影になっていた。
「ユウヤ…!」
 静かに叫ぶとその顔が上がる。
「違うよ」
 泣いてはいない。歪んでは。ただ別れ際の笑顔が張り付いて、そのまま凝ってしまったようで。瞳の縁が震えている。唇もかすかに震えていた。
「違うんだ、つらいんじゃない…」
「ユウヤ…」
 ジンは目の前にしゃがみこむと強張った肩に触れた。もう一度名前を呼ぶと、それに合わせるようにユウヤが深呼吸をする。
「ジン君と話せたのが…嬉しくて…、君ともっと話していたい…気持ちが…自分が怖くて…」
 眉間に皺が寄りそうになるが、それでもユウヤの笑顔は自動的に張り付いたまま、おそらくジンを見つめていると微笑まざるを得なくなるのだ。まるで本能のように。
「恥ずかしい…のかな……許せないのかな…僕はこんな夜に…君と話せたことが…嬉しくて、嬉しくて、たまらないんだよ……」
 とうとう視線に耐えかねたようにユウヤが俯いた。そこでようやく表情が歪んだのだろう。引き攣った息が聞こえた。喘ぐように息をする。それは苦しげで助けを求める声にも聞こえた。しかしユウヤは顔を上げようとしない。ジンに縋りつこうともしなかった。ジンが肩を抱く手に力を込めると、わずかに身体が揺れる。
「ユウヤ…」
 ――そんな声を出さないでくれ。
 軽く引き寄せる。項垂れた頭がジンの肩に触れる。
 ――声を聞かせてくれと望んだのは、僕なのに。
 大きく抉られて穴の空いた心を、少しずつ世界の喜びで満たして、それを口に出す。嬉しい。面白い。素敵。LBXが好きだ。
 毎日が楽しい。それだけでは駄目なのか。
 ――僕らの人生は…、
 まるで戦争だ。
 ――ユウヤの心は…、
 もっと温かなもので埋められるべきなのに。穴を埋めて、水をやって、根付いた心から笑顔は咲くのに。現実という爪が容赦なく、消えない傷痕を抉るのだ。
「ユウヤ」
 声が震えないよう努めて抑え、ジンは囁いた。
「バトルを、しよう」

 Dキューブを展開した草原のフィールドは真昼のように明るい。
「トリトーン」
 愛機の名前を呼び、戦いのための大地に降り立たせる。
「…リュウビ」
 ユウヤも同じようにそうした。
 二体は対峙したまま動かない。眼差しはそれぞれのプレイヤーに注がれていた。まだ訝しがる瞳でユウヤが尋ねる。
「…本気で?」
「勿論だ」
 その言葉と共にトリトーンが動き出す。大振りな攻撃を躱し、リュウビも剣を構えた。
 本気を出した秒殺の皇帝を相手にするということは、その名の由来となった死の宣告を受けるのと同義だったが、本気の灰原ユウヤを相手にするということは、人生の半分以上の時間をそのために訓練され手足のようにLBXを使うあの灰原ユウヤというプレイヤーを相手にするということだった。
 攻撃が当たらない。剣先が嫌な場所を掠める。十秒はとっくに過ぎていた。二十秒、三十秒……。
「バン君は、強いね」
 ぽつりと呟きが漏れた。ジンはLBXから目を離し、ちらりとユウヤを見た。ユウヤの視線は二体のLBXを追っている。
「去年、バン君はお父さんを助けるために戦ったんだよね。聞いたよ」
「…ああ」
「今日もバン君はお父さんのことを助けたんだ」
 すごいなあ、という呟き。
「バン君は本当にLBXの、みんなの夢や未来を守ったんだ。その為に戦ってるんだ」
「僕らも…」
「ジン君もね。君はバン君が迷った時、立ち止まった時、彼の心を支えてあげられる」
 僕には戦うことしかできない。
 そう呟いたユウヤの剣先は駆動系を掠め、シーホースアンカーの柄がコアを狙うのを避けて大きく跳躍した。
「去年のアルテミスのことを覚えている」
 ユウヤの言葉と共に、リュウビの足が錨を模したハンマーの上に降り立ち、ドシンと音を立ててそれを地にめり込ませる。
 ダンボール越しに一瞬、目が合う。
「確かに僕の記憶は混濁していた。過去と現在の区別もつかなかった。思い出と記録がごちゃごちゃの渦になって僕の頭を引っ掻き回していた。でも…僕にとって見てきたものも、経験も、全て必要なデータだから、落ち着いたら全部一つ一つ思い出せたんだよ」
 リュウビの剣がトリトーンの首を狙う。トリトーンはシーホースアンカーを手放すと、突き立てられようとする剣から逃げた。
「エンペラーランチャーを押さえつけた時、ほんの一瞬、君は怒ったような顔をしていた」
 リュウビはシーホースアンカーから足を退け、再び襲いかかる。
「僕は色んなLBXを倒した」
 感情を消した声でユウヤは言う。
「A地点に敵がいる。目標を補足。攻撃開始。三ミリの距離で攻撃を躱せ。目標を稼働不能にしろ。使用弾数は五発。…僕はそれができる。でもそれは強いってことじゃないんだ。僕の手はまだ誰も守れない。誰も救えない」
 トリトーンはようやくシーホースアンカーを取り戻し、二体が再び正面から対峙した。
「君の役に立ちたい」
 低く、切実な呟きがジンの鼓膜を撫でた。
「君を守れるようになりたい」
 二体は正面からぶつかり合う。
「僕は、君みたいになりたい…」
「君は君だ、ユウヤ」
 トリトーンの力の方が押す。
「君の人生を生きればいいんだ」
 それを今日見つけたのではなかったか。
 LBXがあったから起きた過去。LBXがあったから繋がれた絆。
 LBXがあったから、LBXが好きだから再び抉られた傷。
 LBXがなかったら一体どんな人生だったのだろう。自分は?ユウヤは?
 ――僕たちは……。
 傷を知る心で、傷の残る身体で、傷ついた世界を、楽しい毎日だけをは過ごせない世界を生きる。今日も、この夜も、そして明日からも。生きていく。
「生きて、生きて」
「生きて…」
「いつか死ぬ時、僕を裁いてくれるのは、きっと君だ」
 こんな命懸けの戦いに身を投じて、いつどんな目に遭うかは分からない。実際、何人もの人間が命を落とした。タイニーオービットの宇崎悠介、山野淳一郎の助手でもあったレックスこと檜山蓮、あのアルテミス会場でも理由も知らぬまま死んだ人間がいる。そんな戦いの中十四歳で命を落としても、たとえこの事件が終わって七十や八十まで歳を取って死ぬとしても。海道義光、ジ・エンペラー、じいやの温和な顔、自信たっぷりな野心家の西原誠司、プロトゼノン、共に戦ったカズ、アミ、ヒロにラン、ジェシカ、そして何よりも自分が大切にしたいと思ったバンの笑顔、それらの巡る走馬燈を終わらせるのはきっとユウヤだ。
 ジャッジ。ジンがその手で、エンペラーM2を向かわせ破壊したあのLBXは、ユウヤそのものとなって、最後の瞬間にジンを審判するだろう。
 海道ジンの人生とは何だったのか、と。
 二人はCCMの映像を通して、互いのLBXを正面から見据えた。リュウビはLBXだ。表情はない。しかし…。
「ジン君」
 リュウビの向こうから、その声は呼んだ。
「君が死ぬ時は僕も一緒に死ぬよ」
 さも当たり前のようにユウヤは言った。
 ジンは思わず顔を上げてユウヤを見た。その表情は穏やかで、目は正気を保っていた。感情や熱意に踊らされているのではなかった。まるで自分の人生を決めきって、全ての運命を受け容れたような静かで揺るぎない瞳だった。
 ぐ、ぐ、とリュウビの剣が押す。トリトーンはそれを跳ね上げ、遮るものなく目の前に晒されたリュウビの首に向かって言った。
「じゃあ、長生きをしようか」
「分かった」
 再びぶつかり合う武器の心地良い響き。
 勝ったのは、リュウビだった。

 ユウヤの部屋の前まで、ジンは送って行った。とはいえ、すぐ側の部屋ではあったのだけれど。
「おやすみなさい」
「ああ。また明日」
 手を振ったユウヤがボタンを押す。ドアがスライドして、暗い部屋と明かりのついた通路を隔てる。
 ジンはしばらくそこから動かなかった。ユウヤのいる部屋と自分とを隔てるドアに手をつき、額を押し当てた。
「……ユウヤ」
 小さな声で呼ぶ。
「そこにいるのか?」
 小さな音がした。手を離すとドアがスライドして、再びユウヤの顔が目の前にあった。しかしその顔は今にも泣きそうで、瞳の縁には涙をいっぱい溜めていた。
 ジンは一歩部屋に踏み込み、ユウヤの身体を抱きしめる。
 沈黙の中で二人はかたく抱き合った。その姿は廊下から射す光から逃れ部屋の闇に溶け、スライディングドアのセンサーがそこに誰もいないことを判断し自動的に閉じた。
 溜息が聞こえた。それから泣き出しそうな吐息が。
 沈黙の気配が眠りに変わるまで、二人は決して離れようとしなかった。静かな夜だった。呼吸が止まりそうになるほど静かだった。その中に寝息を聞いた時、ジンは自分の目からも涙が溢れていることを知って、また溜息をついた。
 小さな声で名前を呼ぶ。腕の中で眠る、彼が人生の最後の瞬間に再び呼ぶだろう名前を。



2012.8.14