帰りを待つ人々







帰りを待つ人:帰らない人

 感傷にひたる暇もなかった、というのは言い訳のような気がして宇崎拓也は仕事に打ち込みつつも墜落するサターンの爆炎に消えた檜山蓮を捜し続けた。ブルーキャッツに足を向けないのは、もうそこにはいないことを毎日毎日再確認するのも無駄な気がして…。それこそひどい言い訳に拓也本人には聞こえたのだけれど。
 だから金曜日の夜に急に足を向けたそこに灯がないのに、人の気配がないのに、改めて落胆しつつも奇妙に安堵していた。オレはまだこれに落胆できる。檜山は過去ではない。オレはあいつのことで今でも感情がこんなにも揺れる。
 合鍵の隠し場所も覚えていた。主のいない店内で指定席に座り、空っぽのカウンターを見つめる。
「いつもの」
 呟いてみたが、いつもはそんな注文をする前から檜山はコーヒーを出してくれたのだ。
「………」
 カウンターに置き去りにされたコースターが、夕闇の中にぼんやりと白く見えた。拓也はそれを摘み上げた。カウンターには薄く埃が積んでいて、コースターの下だけ丸く綺麗な後が残っている。つやつやに磨かれたカウンター。拓也はそのなめらかな表面に触れ、不意に何かに気がついた。
 視覚でも、触覚でもない。匂いだろうか。これが気配だろうか。
 明かりはなかったので携帯電話を取りだし、ささやかな青白い光にそれを見た。

 Dear T

 書かれていたのはそれだけだった。拓也は俯き、瞼をきつく閉じた。心臓を落ち着かせ、ちゃんと呼吸が出来るようになるまで待たなければならなかった。いつまでもここで待っていられそうだった。今すぐに出てきてくれ。オレは待っている。お前が帰ってくるのを待っている。
 無人の店内は寒さが染みた。拓也は痺れる足で立ち上がった。カウンターについた掌が手形を残した。凍えた指先をカウンターに滑らせる。

 My dear L

 暗いカウンターをじっと見つめ、EとXを足した。
「レックス」
 拓也の知る限り最も強く、最も孤独だったLBXプレイヤー。
 愛した男の面影を背に、拓也は店を出た。街の明かりが眩しくて、タクシーに乗った次の瞬間には目を伏せた。痛む目の奥から、じわりと涙が滲んだ。


帰りを待つ人:帰る人

「お前のやり方では何も変わりはしない」
 官邸前の夕闇に落ちたその声は冷たく、軽蔑にも近い情の無さが感じられた。財前は目の前の背中に目をこらした。八神は落ち着いているように見えた。一発の発砲はあったが、全く感情的ではなかった。弾丸は目の前の男に当たりはしなかった。しかしそれは男の放った銃弾が自分に当たらなかったこととは決定的に違っていた。
「手に持っているものを捨てろ」
「財前!」
 男は八神の説得には応じず、先ほどと同じように叫び銃を構える。夕明かりにも官邸からの光にも反射しない銃口。グロックの口は真っ黒な穴で、その小さな穴が財前を狙っている。
「これ以上は繰り返さんぞ」
 八神の声が厳しくなった。
「銃を捨てろ、今すぐに」
 次の瞬間、夕闇に咆吼と銃声が響いた。咆吼は男のもの。そして財前の鼻腔には、また慣れない硝煙の匂いが刺さった。
 男はまだ呻き声を上げていた。膝をつき、腕を押さえている。銃を握ったまま離さないが、しかしそれを持ち上げることはもう無理だろう。
「次は心臓に当てる」
 夕闇の下に、八神の声は静かに響いた。男は短く引き攣る悲鳴を上げながら、ようやく手からグロックを離した。それは存外軽い音をたてて官邸前の煉瓦の道に落ちた。
 ばたばたと八方から足音が駆け寄る。男はあっという間に地べたに伏せられ拘束された。財前はその一部始終を八神の背中越しに見つめていた。
「大丈夫ですか、総理」
 囁く声。八神がわずかに振り向いて尋ねる。その視線には先ほどまでの冷酷さは欠片もなく、心底財前を心配していた。
「ああ」
 財前は敢えて笑顔を浮かべ、力強く答えた。
「私は大丈夫だ」
 掌で目の前の背中に触れる。
「君は」
「心配には及びません」
 防弾は着ていた。それを身につけるところを財前はこの目で見ている。
「しかし、痛いんだろう」
「あなたが無事ならば」
 八神は踵を返すと、背後の逮捕劇を隠すように財前を官邸へと促した。
「すべてこともなし」
 格好をつけすぎだ、と思ったが口にはせず微笑んだ。強い男だ。感情に流されることもなく冷静で、痛みに震えることもせず。
 何も変えることはできないと、それは実体験として、あるいは男の姿に過去の自分を重ねて言ったものかもしれなかった。その言葉は彼の過去さえも容赦なく抉ったが、その痛みにさえ怯むことなく八神は財前を守り続けた。
「威嚇は最初の一発」
 財前は呟く。
「何故、腕を狙った」
「あなたの目の前で人を殺したくはありませんでした、総理」
 背後で扉が閉まる。明かりの煌々とついた玄関ロビーには娘の塔子がSPの手に守られて震えていたが、財前の姿を見た瞬間それを振り切って抱きついた。
「パパ!」
 泣くのを我慢した、ただただ強く大きな声。
「…申し訳ありません」
 財前と塔子の目の前で八神は膝をつく。
「二度目に心臓を狙わなかったことは、あなたの命を危険に晒すということでした。それでも私は…あの男を殺せなかったのです」
 殺したくなかった。殺せなかった。正義を実現する男の命を守るために人を殺すことは正義なのか。昔の自分のように視線の行く先を誤った人間を生かすことは、自分が生かされたのと同じく正義となり得るのか。男は左手でも銃を握ったかもしれない。
「君は正しかった、八神」
 財前は膝を折り、跪いて項垂れた八神の頭を抱いた。
「私が生きていることが、その証拠だ」
「八神さん…!」
 塔子の小さな手が、同じように八神を抱いた。
「パパを守ってくれて、ありがとう」
 今にも泣き出しそうな声が本当に涙で崩れ、八神を抱いたまま塔子は泣き出した。そして嗚咽こそ聞こえなかったが、八神の肩がかすかに震えるのを財前はその掌に感じた。
 財前は両腕を広げて八神と娘を抱きしめる。
「ありがとう」
 そして玄関で言うべき言葉を口にした。
「ただいま」



2012.8.6