時よ止まらずとも雨よ止め







 ドーヴァー海峡を眼下に見下ろした時、既に薄い雲がその景観を覆い始めていた。八神はかすかな振動を伝える携帯電話を取り出し、アラームを切った。画面にはまだ日本の時刻が表示されていた。彼はそれをグリニッジ標準時に合わせ、それから自分の手元を見た。腕時計は妻が贈ってくれたものだった。竜頭を抓もうとして、ふと思いなおす。腕時計は日本の、トキオシティの時刻を刻んだまま、飛行機は薄い雲の下に降りてゆく。
 空港は雨だった。小雨はしっとりと灰色の景色を濡らしていた。荷物が出てくるのを待っているとまた携帯が震える。メールを受信した。迎えが行くからとのことだった。タイミングよく視界の端に見覚えのある姿を捉える。そろそろ小柄とは言い難くなってきた少年の姿。
「八神さん」
 低く落ち着きのある声が自分を呼んだ。もう随分前に少年特有の初々しさを卒業してしまった、かすかに冷たい声。それは彼の特徴であり時に美点でもある冷静さの現れでもある。
 それでも背は八神の方がまだまだ高い。八神は自分を見上げる凛々しい表情がわずかにほころぶのを見て、少し相好を崩した。
「海道…ジン君」
「ご無沙汰しています」
「それに…」
「灰原です」
 ジンの傍らに付き従う少年は、長い黒髪にそれとなく中華風の装いをし、穏やかな顔に感情を滲ませていた。灰原ユウヤ。かつては海道義光の指示の元、神谷重工でCCMスーツの被験体として人生を囚われていた少年。
 雨音が不意に強く八神の耳を刺した。空港の静けさを越して直接耳の中に届く、それは記憶だった。トキオブリッジ倒壊事故、あの雨の夜。あの事件により人生を大きく変えられ、海道義光によって運命の接点を持った三人が一堂に会するのは奇妙な心持だった。湧き上がるのは海道憎しの思いではなく、冷たい寂寞。雨に心が冷えてゆく。
「荷物を…」
 ジンが手を差し出すのを断り、八神は自分でスーツケースを持った。
 八神とジンは隣に並んで歩き、灰原ユウヤはジンの後ろを一歩半下がったところ、影のように付き従う。先の事件で二人が並んでいる姿は見かけているから、今日は遠慮しているのだろうが…。その位置関係を自然に受け入れている姿を見ていると、ジンはやはりあの海道義光に育てられ教育された子どもであるし、ユウヤの半生もまた透けて見えるのを八神は感じた。
「山野博士は君たちを遣いに…?」
「僕らは明日起つんです」
 ジンが言うと、後ろのユウヤも顔を上げて頷いた。
「出立前にバン君のお父さんにご挨拶をと思い、アポイントを取りました。すると電話口で八神さんが今日到着されると聞いて」
「わざわざ遠回りを?」
「ユウヤと見て回りたい場所もありましたから」
 振り向いたジンにユウヤが頷き返す。
 市街地まで直通のバスに乗り、そこではジンとユウヤが隣同士の席に腰を下ろした。八神は斜め後ろの座席からその姿を眺めた。窓際に座るジンが、何か通り過ぎるたびに短い解説をし、ユウヤが頷く。時々ユウヤが何かを言うと、ジンは笑った。
 ――あの子が…
 およそ少年らしさのない子どもだった海道ジンが。
 ――笑った。
 市街地に近づくにつれ、雨脚は強くなった。折り畳みの傘をスーツケースに入れっぱなしだった、と思ったがホテルに着くころ、それはまた柔らかな霧雨になっていた。バスを降り、ホテルまでの道のりを歩く間、コートの肩が静かに湿った。ジンたちは傘を持っていた。ユウヤが持つそれに、ジンが入っていた。ユウヤはごく自然にジンに向かって傘を傾け、その左肩も八神と同じように濡れていた。
 無私の行為。身体が自然とそう動く。妻子を失った自分にとって生きる道を示したのは海道義光だった。疑いから始まったにも関わらず、彼の思想は八神の中に徐々に、そして確かに浸透していった。二年前の事件を契機に自分はそのくびきから解き放たれたが、彼らは…。
 ――いや、不幸という話ではないのだ。
 ジンがユウヤにかける優しさを、ユウヤは自然に反射している。二人の間にあるのは利害でも損得でもなく、通い合う心だった。ジンはユウヤの友人であり、同時に世慣れぬユウヤの導き手だ。そしてユウヤにとってもジンは掛け替えのない友人であると同時に、その心の全てを預け得る存在なのだろう。二人は信頼し合い、互いの心を思い遣り、その心のままに行為している。ただそれだけだった。
 八神にも覚えはあった。失意の底にある自分に海道義光は心からの声をかけた。たとえその目的が違うところにある偽りの善であったとしても、海道は八神の心を動かそうとして自らも心からその言葉を発したのだし、事実、自分の胸は震えたのだ。
 ホテルに着くと、傘をたたんだユウヤの肩をジンがハンカチで拭った。八神は聞かれぬように羨望混じりのため息をついた。
 昔を思い出す、思い出さざるを得ない。今日出会う人々は。
 山野淳一郎の部屋は、かつて監禁されていた彼の部屋を思い出させる雰囲気だった。研究所を出て、関連の研究所もデータも、みな直接異動先に送ってしまったらしい。テーブルの上には個人的なものか、数冊の本と、パソコン。読書用のテーブルランプだけが点けられていて、八神たちが踏み込んでようやく部屋の暗さに気付いたようだった。
「すまない。どうもこういうことに気付かなくて。ルームサービスでお茶でも…、それともレストランに移動するかい?」
 三人が三人とも、どうぞお構いなく…、と遠慮してしまいそうなところを、実は私も腹ペコでね、と山野はメガネの奥でウィンクしてみせた。タイミングよく誰かの腹が鳴る、ということはなかったが、ジンとユウヤが声に出さず笑い合い、そして八神の目の前にはようやくホテルの部屋が現実として広がった。ベッドの上に投げ出された荷造り途中の鞄。テーブルランプの下に置かれた本の、栞がわりに挟まれているのは息子の、山野バンの写真だった。
「さあ、行こう」
 軽く背中が押された。山野の、技術者らしい硬い掌が背中を押していた。八神は軽く頷き、扉をくぐって廊下に出た。廊下には数歩先を、レストランに向かって足取りも軽い少年二人の肩が揺れていた。

 ジンとユウヤは、夕食は二人で摂ると言った。
「君たちだけで…?」
 八神の顔は心配を隠さなかったが、相手はあの海道ジンである。心配をするだけ野暮というものかもしれない。
「もし八神さんが僕たちと一緒に観覧車に乗りたいと言うなら、話は別かもしれません」
「観覧車?」
「サウス・バンクの」
「元・世界一の観覧車です」
 ジンとユウヤは一言ずつ答えた。
 空港から向かうバスの車窓に見た観覧車。テムズ川を挟んで、その巨大な影は雨の中に霞んでいた。
「…晴れるといいね」
 八神が言うと、ジンが頷き、ユウヤは、はい、と答えた。
 二人を見送った八神と山野は席に戻り、椅子に立てかけられたままの傘を見つける。
「忘れ物を…」
 追いかけようとするのを山野が止めた。
「見てみなさい」
 窓の外を二人は歩いて行く。霧雨の下を。走ることなく、雨に濡れるのを厭うことなく、足取りは軽やかでここまで笑い声が聞こえてきそうだった。
「プレゼントをもらってしまったね」
 山野は傘を取り上げ、目顔で八神を促した。
「外へ…?」
「傘があるなら。まだ夜には早い。昼間から酌み交わすのも悪くないだろうが、君は?」
 八神が返事をできずにいると、君はそういう男だ、と山野は言った。
 ホテルを出ると霧雨が街を多う微かな音が重なり合って耳を覆われるような気がした。八神は空を見上げ、静かに顔が濡れるのに任せた。
「入らないのか」
 傘をさした山野が振り向く。
「…私はあなたの傘に入るに値する人間でしょうか」
「傘に入るのに資格を必要とする世界に君はいるのか」
「常に」
 雨に濡れた視線を山野に向けると、山野はにこりともせず言った。
「最後の審判まで何年待つつもりだね」
「お答えできません。しかし、何年でも」
「朴念仁め」
 山野は苦い煙でも吐き出すかのように息を吐いた。
「内罰的な男だな。この前の事件での君の働きぶりは常に未来を見つめていた。その足取りがどうだ、今はひどく覚束ない」
「…過去は消せません」
 海道義光を信じたこと。裏切ったこと。山野淳一郎を拉致し、監禁したこと。彼らの敵であったこと。償いは生によって果たされる。生きている限り。しかし。
「この雨は重い」
 山野が歩み寄り、傘を差し掛けた。
「気弱になるのも仕方ないか。君もまだまだ若い証拠だろう」
「山野博士…」
「気の弱さとアルコールの相性は悪い。少し散歩をしよう」
 硬い掌が背中に触れ、促した。八神が一歩踏み出すと、傘を差し掛けた山野も歩調を合わせて歩き出す。
 歩む先にあてもなかったが、気づけばテムズ川沿いの遊歩道を川を遡るように歩いていた。雨空がしっとりと暗くなり、街灯がぽつぽつと灯る。不意に対岸が明るくなったかと思うと、巨大な観覧車がライトアップされ、回転していた。
 今頃、ジンとユウヤはあそこにいるのだろうか。結局雨は降り続いている。霧雨にけぶる街を見下ろして、あの二人は一体どんな話をするのだろう。
 また雨音が蘇る。刺すような雨音。あの二人はお互いの過去について語り合うのだろうか。彼らの間に海道義光の名前は出るのだろうか。
 考え続ける八神の耳に不意に、最近とみに耳慣れないものが滑り込んだ。柔らかな口笛。隣で、山野が傘を揺らしながら口笛を吹いている。
「雨に唄えば。これはハリウッドだったな」
「ああ…、ええ」
「何故かイギリスの話と勘違いしていた。雨のせいだろうな」
 不意に山野が一歩踏み出す。傘を押しつけられた八神は、山野の背中が躊躇いなく雨の中に飛び込み、不器用なダンスを踊るのを見た。
「ゲーテの言葉を知っているかね、八神君」
「時よ止まれ…ですか」
「今の私に?」
 山野は爆笑した。腹が捩れるほど笑っていた。八神は俯き、じっと足下を見つめていた。ファウストというのは選択としてさしてハズレでもなかったかもしれないが、引用箇所はこれでもかというほど適切ではなかった。
「すまない、これは、はは、久しぶりに腹の底から笑ったよ。君がまさかそう来るとは思わずにね」
 尚も俯いていると、そう気にすることはない、と対岸の観覧車を見上げた。
「時よ止まれ。きっと彼らは時が止まったと感じるほどの時間を過ごしているだろうね。不幸から生まれた関係だが、彼らの友情は美しい」
 未来の祝福を、と山野は言い添えた。八神も顔を上げた。観覧車の中の海道ジンと灰原ユウヤ。まだ若い二人の魂に相応しい、明るく華やかな光だった。
「私が引用したかったのは、こうだ」
 山野は懐から半ば湿気った煙草を取りだし、火を点けると大きく手を振った。赤い小さな炎の軌跡が目の中で残像となり半円を描く。
「雨の中、傘をささずに踊る人間がいてもいい。それが自由というものだ」
 深く煙を吸い込み、今度は美味そうにそれを吐き出した。
「私は自由だ。好きな時に妻と息子に会いに行くことができる。好きな本を好きな時に読み、好きな研究に好きなだけ没頭している」
「………」
 沈黙の瞳を受けとめ、山野は不敵に笑った。
「私は自由な人間だ」
 君は?と眼鏡の奥から問われていた。
 八神は傘を畳んだ。雨音は柔らかい。川の流れは穏やかで、それらの溶け合った街の音は心地良い夕方へ向けて流れ始めていた。濡れた草を踏み、彼は山野の隣に立った。
「私にもいただけますか」
「五ポンドだよ」
「………」
「冗談だ。この国にいる間にやめられるかと思ったが、上手くいかない」
 煙草は遠い、懐かしい匂いがした。それは海道義光に出会う前。妻と娘を失う前。最愛の女性と出会う前。ただ一人の男だった八神がかいだ匂いだった。彼は煙と一緒にため息をつき、そっと苦笑した。心と裏腹な笑みであり、心からの笑みでもあった。懐かしさと後悔がない交ぜになり、彼はもう一度溜息をついた。
「…おっしゃるとおり」
「ん?」
「重い雨ですね」
「名物だ。仕方ないさ」
 耳を覆う音が徐々に、霞を払うように消えていった。雲が切れ、気づくと夜空が覗いていた。
 スコッチ・ウィスキーで乾杯と行こう。山野は大声で言うと歩き出した。八神は、きっとわざとなのだろう大股の歩調に合わせながら、煙草の最後の煙を吸い込んだ。



2012.6.20