高度1万メートルの安定剤







 海を越えて自分を事件の起きているまさに現場へ運ぶ飛行機は午前中最後の便で、十一時ちょうどにトキオシティを離れる。直行便のそれがNシティに到着するのは現地の十時四十五分で、この奇妙な感覚は、八神にふと懐かしい感覚を呼び起こした。忘れかけていた感覚だ。まるでタイムスリップのようではないか。
 実際には半日以上飛行機の中に拘束されるのであり、使命を考えればその十三時間弱とて無駄にはできないのだが、仮眠程度はとった方がいいのかもしれない。スーツケースに急ぎ荷物を詰め込みながら、ポケットに安定剤を忍ばせた。薬に頼らず眠れればそれが一番いいが。
 真野達に事務所を任せ、タクシーで急ぎ空港へ向かった。昼は機内食でいいとして、少し喉が渇いている。ふとポケットの中の安定剤が気になる。これまでもそれをコーヒーで飲み下したことはあったが。黒の部隊を率いていた頃、自分の身体など顧みもしなかった。胃が荒れているのも、睡眠不足による頭痛も当たり前で。否、妻子をなくした時から、身体の痛みなどどうでもいいと気にも懸けてこなかった。
 空港の建物と抜けるような青空のせいでひどく眩しい。一瞬の眩暈。
 後ろからかけられたクラクションに足下が定まって、安定した視界が蘇る。振り返ると一台のリムジンがつけられている。音もなく窓が下りた。
「八神さん!」
 顔を出したのは財前の娘、塔子だ。
「やあ」
 奥からは財前その人が軽く手を挙げる。
「総理に…塔子お嬢さんまで」
「アタシ、その呼び方好きじゃない。八神さん」
「塔子…さん」
「そう。それがいいよ。アタシのことちゃんと見てくれるから、アタシ、八神さんが大好きだ」
「見送りをすると言ってきかなくてね」
 財前が言った。
「ねえ、お願いがあるんだけど…、八神さん」
 塔子が身を乗り出し気味になり、声をひそめる。
「何でしょう、塔子さん」
 八神も少しかがみこみ、塔子と視線を合わせる。
「あのね」
 不意に塔子が顔を赤らめる。
「お土産をおねだりするんじゃないんだけど、その、買ってきてほしいものがあるんだ」
「いいですよ、お土産くらい」
「お土産じゃなくて! 八神さんが帰ってきたらちゃんとお金を払うよ!」
 気にしなくてもいいのに、と思うがここでそう言うと塔子は余計ムキになるだろうから八神は微笑んで、何ですか、と訪ねる。
「サッカー雑誌!」
 羞恥による赤面ではなく、本当に顔を輝かせて言った。
「英語でもいいよ、大丈夫。外国のサッカー情報が沢山載ってるのがいい!」
「塔子さんはサッカーがお好きなんですか」
「うん、大好き」
 気持ちの溢れるような笑顔で塔子は答える。
 車内で財前が塔子の肩を叩いた。二人は席を入れ替わる。財前は少しだけ窓から顔を出した。
「すまないな、八神君。面倒なことまで頼んでしまって」
「ご心配なく、使命は果たします」
「無茶はするな」
 よく日に焼けた手が伸びて頬に触れた。
「長時間のフライトだが…いい席を取れなかったのはすまない。時差ボケには気をつけて。しっかりやってくれたまえ」
「はい、総理」
 財前は歯を見せて笑った。
「もう肩が強張っている」
 不意に身を乗り出した男の唇が触れたのは一瞬の事で、
「期待している」
 その一言で窓が閉まり、リムジンはたった今までここに総理大臣とその令嬢がいたこともまるで嘘のように走り去る。
 八神はくるりと通りに背を向け、搭乗の手続きに向かった。フライトの時間までは慌ただしくあっという間で、気がつけば空の上だ。眼下にはトキオシティが霞んで見えた。機内食とともにワインを一杯だけ頼んだ。昼間だが構わないだろう、この後仮眠を取る。
 ワインが口の中に流れ込むと、また財前の口づけを思い出した。八神は息を吐き、座席にゆったりと沈み込んだ。表情が緩んでいるのにも気づかなかった。ポケットの中の安定剤に至ってはすっかり忘れていた。窓の外は街の姿もすっかり遠ざかり、青い海が広がる。八神はブラインドを下ろし、瞼を閉じた。まるでシーツの間にいるかのような眠りの気配が、もうすぐ側まで近づいていた。



2012.4.29