喪失した朝、再生する朝







 殺そうとした男に抱かれる時、八神は自分の片手が空っぽなのに気づく。とは言え、その手で相手の首を抱くことなどできないのだった。
 財前という男は実に爽やかな男で、およそ政治家には珍しい。一般に人々が夢見る理想的な政治家、を地でいくような男だった。
 ――清潔な人だ。
 他意無くそう思う。羨む気持ち以上に、憧れに近い気持ちも湧いた。テレビのヒーローを眺めるように。彼の真っ直ぐな視線、偽らぬ熱情、揺るぎない正義感。その真っ直ぐさが扱いづらくあり敵を作るのも八神は間近で見てきたのだが。
 ――強い父性…
 いや、
 ――男、だな。
 八神はベッドに横たわったまま、その男がシャワーを浴びる音に耳をすませた。
 妻と巡り会ってからはこういう関係もあるまい、と思い、妻子を失ってからは二度と得ることはないだろうと思っていたあたたかなベッドだった。広く、清潔で、シーツの間にはまだ財前の体温が残っていた。

 眠っている自分を財前は起こさなかった。
 目覚めたのは翌朝で、カーテンを開く音と真っ直ぐに射す眩しい光に八神は目を覚ました。枕から顔を上げると、光の中にぼんやりと財前の姿が見えた。
「おはよう」
 歯切れのいい挨拶。
「おはようございます、総理…」
 急激に覚醒する。朝の挨拶と、彼を呼んだ総理という言葉が頭の中でぶつかり合い、意識が現実の空間に強制的に降り立つ。目の前に立つ男は確かに財前宗助、この国の首相だ。しかし昨夜枕を共にした相手だ。
 思考より先に理性の反射か、申し訳ありません、という言葉が口をつきかけたが、ふ、と財前の腕が伸びて、指先が八神の唇を封じた。
「今は堅苦しい関係はなしだ。私の私室では」
 真っ直ぐに見つめる瞳の輝きは些かの少年っぽさを感じさせた。不思議な人だ。昨夜の目とも違う。政治家の顔とも違う。彼の素の表情はまだ柔らかく、きっと心もそうなのだ。自分が痛みに耐えかねたり、誰かを殺そうとしたりするたびに硬化させ感じないようにしてきた感性を、彼は柔らかいまま持っている、のだろう。
「…はい」
 八神が返事をすると、目の前の男は屈託なく笑った。
「シャワーを浴びてきたまえ、八神くん。朝食を用意しておこう」
「いえ、私は…」
「遠慮はいらない。それともここでの関係性をはっきりさせるためには、もっと打ち解けた呼び方をした方がいいかな。英二、と?」
 英二。
 誰が過去にそう呼んだだろう。朝の光の中で、白い歯をこぼれさせて。一体、誰が…。
 すると財前が戸惑ったように呟いた。
「少し性急すぎたかな」
 厚い掌が肩に置かれる。
「驚かせてすまない。食堂で待っているよ」
 はい、と小さな返事をし、八神は財前の後ろ姿を見送った。
 ベッドから下りる。裸を、薄いカーテン越しの朝の光に晒し、恥はない。しかし奇妙に心の奥がくすぐられていたたまれずバスルームに向かった。そこで鏡を覗き込み、自分の顔が赤いことを知った。
「驚いた訳では…」
 言い訳のような呟きが漏れる。
 洗面台には歯ブラシや、ヒゲをあたったのだろう剃刀が残されていた。八神は剃刀を取り上げ、まだ濡れた刃先を撫でた。こんなものまで清潔だ。電気を反射させる光さえ眩しい。
 同じ剃刀でヒゲをあたり、シャワーで肌に残る昨夜の痕跡を洗い流す。汗もキスのぬくもりも流れてしまえば、少しは頭もマシになった。
 ベッドを共にした、とは言え立場は弁えなければ。彼は総理大臣、自分は一度彼に刃を向けたこともある今では一市民に過ぎない。しかし彼は自分の信頼を与えてくれた。それに報いる為に、働く。ベッドでの一件は自分の首に首輪をつけられたと解釈をすることもできたが、あの爽やかな笑顔を見てしまうと、セックスさえあの握手の延長のようで感情をどこに落とし込んだものか迷うところではあったが、ともかく今はベッドを離れているのだし、新しいシャツを着ればそれが自分と相手を隔ててくれる。裸で触れ合っているのでなければ、それ相応の距離の取り方はできるのだ。
 食堂からは朝日に輝く広い庭が見えた。それを背に座る男と、幼い少女。
「おはようございます」
 少女はぴょんと椅子から降りて頭を下げた。
「初めまして。あなたがパパの新しいエージェントね?」
「…おはようございます」
 八神は膝をつき、少女と目を合わせる。少女はこぼれるような大きな瞳を輝かせて八神を真っ直ぐに見つめた。
「あたしは財前塔子!」
「です、は?」
 後ろから声が飛ぶ。
 少女はちらりと財前を振り向き頷くと、再び八神に向き直った。
「財前塔子です!」
「よくできました」
 塔子と名乗った少女は、えへへ、と笑い満足げだ。
「…娘さん、ですか」
「知らなかった訳ではないだろう?」
 八神も正面から少女を見つめた。父親似の真っ直ぐな視線。笑顔の裏表のなさは、勿論幼さ故のものかもしれないが、爽やかで些かに少年勝りな気がした。
「初めまして、塔子さん」
 八神は手を胸にあて、挨拶をする。
「私は八神英二です。これからお父さんの仕事のお手伝いをさせていただきます」
「よろしく、八神さん。パパのお仕事は大変だからいっぱい助けてね!」
 かけたまえ、と財前が促し、朝食を用意したのは塔子だ。八神が手伝おうとすると「自分でできるの!」と言って手を出すことを拒んだ。
「一度言い出したらきかないんだ」
 財前が笑う。
 三人で朝食を摂る、朝。八神は不思議な心地で目の前の男とその娘を見た。かつて自分にも三人で朝食を摂った時間があった。朝から英二と笑顔で呼ばれ、娘が笑いかけ、明るい朝の光の満ちるテーブルで一緒にいただきますを言う。
「…どうした、八神くん」
 ふと表情を静め、財前が声をかけた。塔子もじっと自分を見つめている。
「いえ…」
 八神は口元を覆った。
「何も…」
「…何も遠慮しなくていい」
 財前が微笑んだ。
「ここにはおかわりもある。パンも、コーヒーも」
「あたしが淹れてあげる、八神さん」
 塔子も笑って自分の顔を覗き込む。
 ――こんなに清潔で
 八神は唇を噛む。
 ――明るい朝を
 不意に財前の手が肩を掴む。
「気後れすることはない。君はもうこちら側に歩き出したのだから」
 ありがとうございます、と小さな声で返すのが精一杯だった。掌で覆った下で涙が溢れそうなのを堪えた。
 塔子は新しいコーヒーを持って来てくれた。そしてハート型の砂糖をいくつも入れてくれた。八神は礼を言って甘いコーヒーを飲んだ。財前が同じ物をと言うので、塔子は喜んで父のコーヒーにもハートの砂糖を入れた。



2012.4.19