甘やかに囁くは、夜




 鈍い痺れが眠りにまとわりついていた。瞼が重く、持ち上げるのにも苦労した。瞼の裏の闇にこそ何か大切なものは映っていたが、彼にはそれを判じることは出来なかった。遠く霞む景色のように、自分の目の前にあった掌が遠ざかっていくのが見えた。その酷い悲しみから逃れようと、ドイツは瞼を開いたのだった。
 時計の音が耳に蘇る。柱時計が規則正しく振り子を振り、その奥で金属の歯車の噛み合う音さえ聞こえた。天井は暗く、夜だと解った。空気はわずかに冷たく、ひっそりと静まりかえっていたが、すぐ側に人の存在する気配を感じた。視線を巡らせると、窓の下、月明かりで何かを読んでいるらしいオーストリアの姿があった。
 オーストリアはドイツの視線に気づき、軽く溜息をついて手の中の本を閉じた。近づいてくる彼にドイツは尋ねた。
「…ここへは?」
「ご安心なさい」
 オーストリアの視線を辿ると、うもれるようにして自分の隣に眠るイタリアがあった。
「この子が連れてきてくれましたよ」
「俺は…」
「このお馬鹿さん」
 馴染みの科白と共に、頭に本がぶつかった。その仕草は彼らしくなく、また叩かれたことにも少し驚いて顔を上げると、オーストリア自身も少し戸惑ったようにドイツの頭を叩いたばかりの本を持っていた。
「失恋の傷は抉れるだけ抉った方が、貴方のような人には治りが早いらしいですが……、彼の手前、今夜はやめておきます」
「そりゃあ……、心遣い…、ありがたいな」
「まさか、まだ実践する気じゃないでしょうね」
 その時イタリアを見下ろしたドイツは自分がどんな顔をしたのか解らなかったが、溜息をついたオーストリアは苦笑して、今日は寝るといいでしょう、とだけ言った。
 部屋から立ち去ろうとするオーストリアの背中にドイツは声をかけようとしたが、その前にオーストリアが振り向く。
「礼には及びませんよ。私は本当に何もしていませんから」
「……ダンケ」
「おやすみなさい」
 ドイツは枕の上に頭を落とす。すぐ隣にはイタリアの寝顔があった。正しくは狸寝入りの寝顔、だった。
「イタリア」
 声をかけると、表情のあちこちに妙な力が入って、本当は起きているのは明らかにばれていたが、ドイツはそのまま声をかけた。
「迷惑をかけた」
 イタリアがぎゅっと手を握り締める。
「俺が、俺の間抜けにお前を付き合わせるなんてな」
 更に身体の強張る気配がしたので、ドイツは黙ってベッドから下りようとした。眠るのに寝台である必要はなかった。特に、イタリアと一つの寝台で寝る必要は、全くないのだと知るように思った。
 しかし、ドイツは床に足を下ろすところまでいかなかった。裾を掴まれたからだ。
「ドイツ」
 小さな声でイタリアが呼んだ。
「オレ、このままでいい」
「……でもお前は」
「あのさ、ドイツ、ごめん」
 そしてイタリアは小さな声で謝り続けた。お蔭でドイツは様々な事実を知ることが出来た。取り敢えず戦車は明日の朝一番にデッキブラシで磨くことを決意する。バケツの件は過ぎたことだが、明日の訓練は絶対に怠けさせない。
 明日、を考えた。
 花の香りが掠める。ヘリオトロープはテーブルの上にいけられていた。
「ドイツ」
 イタリアが手を伸ばす。左手の薬指に、それは夜目にも解った。今日、あのレストランで自分が贈った指輪に違いなかった。
「オレ、今夜までこれつけて寝るね」
「……無理しなくてもいいんだぞ」
「してないよー」
 いつもの気の抜けた口調でイタリアは言う。ドイツはイタリアの隣に身体を横たえ、腕を伸ばした。
「ドイツの腕ごつごつしすぎ。寝づらーい」
 そう言いながらイタリアはドイツの腕を枕にする。
 柱時計が十二回、鐘を打った。イタリアは指輪にキスをし、明日もサッカーがしたいであります、と言った。
 馬鹿者、という言葉が生まれてすぐ消え、考えておく、という言葉が喉まで出かかって消えた。
「Ja」
 短い返事に、イタリアがくすぐったそうに笑った。





初独伊。