観月記




 珍しく急な電話だった。
「月を観に来ませんか」
 静かな声が誘いかけた。いつもこちらの都合を気遣う男なのに。昨日の今日どころではない。今宵、今夜のことであるのに。
「仲秋の名月、と言うのですよ」
 静かな声で笑う気配がする。
 飛行場では既にイタリアが待っていて追伸を伝えてくれる。
「意外と寒いって」
 そう言うイタリアも薄着で、自分もそうだった。
 着いた先では日本が待っていて、寒いと言いましたのに、と呟いたが空港はエアーコンディショナーが利いていた。外は雲のない晴れ空で、日本の宅に着くまで歩いた街中の電光掲示板は最高気温を二十八度だと伝えていたが、もっと暑かったろう。ビルの谷間、スクランブル交差点の向こうに陽炎が立ち上っている。
 日本の家の敷居を跨ぐ頃、日は傾いており、「先に旅の疲れを落とされたらいいでしょう」と風呂を勧められる。イタリアが喜んで飛んで行ってしまったので、日本から二人分の浴衣を受け取って自分も後を追う。案の定、イタリアは汗も流さず青天井の下の岩の浴槽――露天風呂、だそうだ――に飛び込む。
「熱いっ! 熱いよドイツ!」
 自分の所為ではないと窘めながら自分も入る。熱いが、疲れが抜けるようにとれた。
 風呂から上がると割烹着姿の日本が煮物と団子を準備している。
「イタリア君、今日はつまみ食いはいけませんよ」
「えー」
「お月様に献じてから、いただくんです」
 月は日の暮れた空に、すぐ昇った。
「真ん丸だ。金色だねえ」
 イタリアが目を丸くする。早速、帯が解けかけていて、日本が直してやる。
 日本は縁側に献上用の皿を出し、団子と煮物をそれぞれ盛った。広い縁に三人並んで掛けると、月は静かに空を昇り、色は白銀の冴えた光に変わる。
 団子を口に頬張りながらイタリアが言う。
「日本、忙しいんじゃなかったの。上司変わったばっかりでしょ」
「忙しい時こそ、季節の趣を忘れたくないのですよ」
 イタリアは笑って日本に団子を差し出す。日本は少し照れたが口を開けて、その中に団子を入れてもらう。
 夜が深くなるにつれ、空気はしんと冷えてきた。日本は奥から羽織るものを取ってくる。時計を観ればまだ宵の口だったが、外は静かで、隣家の木立も、陰もしんとしていた。東京の外れ、とは言え、あのビルの街のすぐ側にも空気の澄んだ場所があったものだと思う。
「はい、ドイツさん」
 後ろから声をかけられる。日本が着物を手に、促す。手を伸ばすと、優美な仕草で袖が通った。
 日本はそのまま、自分の隣に座った。そこから酒が入った。日本酒は米で造った酒なのだそうだ。米には八十八の神様がいるのです、と日本が力説する。その横顔を見る。
 アジア、黄色人種の国。しかし、日本の白さは、白人の白さとも違う色をしている。皮膚の下、通う血を仄かに隠す白さがある。どう表現すればいいのか分からない。濃淡の表現をすれば、淡いとでも言うのか。月明かりは青く、夜の空から射す。白い頬が、酒精に仄かに紅潮している。
「…どうしました」
 日本が振り向く。自然と微笑のようなものが口元を擽った。
「月が綺麗だな」
 すると日本は急に口を噤み、自分を見て、何故かイタリアを見た。日本の無言の視線にイタリアは、ヴェ、と声を漏らす。再び日本の視線は自分の顔の上に戻り、それからゆっくりと口元が解けた。
「ええ、ドイツさん、月が綺麗ですね」
 日本は膝を崩し、喉の奥で笑いながら自分の肩にもたれかかる。珍しい。
「ねえ、イタリアくん、この日本語は綺麗だと思いませんか」
 イタリアは日本酒の注がれた手の中の小さな杯を覗き込んだ。月が映っている。
「つきが、きれい、ですね」
 日本語で、イタリアは言った。
「月が綺麗だね」
「ええ」
「どうした、日本」
 ふふ、と日本は笑う。
「月が綺麗ですね、ドイツさん」
「ああ…、月が綺麗だ」
 もう反対側の肩にも重みがかかった。イタリアがもたれかかっている。二人とも酔っぱらっているのかもしれない。





枢軸三人で書くと独日っぽくなる。