ぐうたらイワシと銭ゲバ眼鏡 5





 薄曇りの空からぽとぽとと滴るように音がひとつ、またひとつと。路地で野菜を売る老婆が木造りの小さな丸椅子に座る傍ら直接石の路地に腰を下ろして日本は、首を持ち上げた。凍てつく空気の和らぐ午後だった。早朝から河岸にに港に響くぱりぱりという音が天に吸い込まれるように消え、いつもより静かなマカオの街は上着を脱いでただの長袖で歩く人も多かった。日本は目で音を辿るように首を巡らせる。雨粒がここへ降ろうか、それとも待とうかとぽつ、ぽとん、と落ちるように二胡の音。やがてこれを降ると決めた夕立のように、しかし穏やかに霧雨のように音は流れ降り注ぎ、露天商もその隣の宿無しも買ったばかりの瓜に噛みつくのをやめた者も皆そろって空を見上げた。本当に雨が降ってきたような心地で。日本はぽかんと口を開けていたが向こうから走ってきた二、三歳の幼児たちが自分を指差して笑うので顎を押し上げて閉じる。しかし口を閉じてはビールが飲めない。閉じた唇の上にぬるくなり始めた缶を触れさせふうっと息を吐いた。やる気のない酒精が鼻先を掠め、降る音にあっという間にかき消された。ワインが欲しくなった。高いビルの上で二胡を弾くのはもちろん澳門。目の前に想い人がいるかのような濡れて滴る音は日本のもっと強い酒を恋しがらせた。ウィスキーがいい。ちびちび舐めながらとろとろと眠るのだ。安心して。物思いに沈むと、どすんと音を立てて尻が揺れる。隣に荒々しく座り込んだ巨体の気配。薄目を開けて見上げればオランダが溜息をついている。ふ…、と笑って日本は飲みかけの缶ビールを差し出した。オランダは受け取ったそれを冷えた石畳の上に置き、自分の手にあったワインを注いで空っぽの日本の手に渡した。
「ちゃんとしたワイングラスも」
 日本は女の背のようになめらかな曲線をなぞりため息とともに吐き出す。
「今ではとても贅沢な代物です」
「それはお前が銭持っとらんからじゃ」
「乾杯」
 グラスの触れ合う音は銀色の魚のように一瞬、二胡の音色から飛び出でてまた消えた。路地に満ち満ちる二胡のメロディはもう河のようで昔からこの港を海目指してたゆたっているような心地になる。日本の目にはグラスを越して澄んだ天色の河が見えている。ポートワインの赤い一滴となって酔い溺れる。
「危ない」
 慌てたふうでもなくオランダがグラスを取り上げた。日本は背後の壁に後頭部をぶつけて尚愉快そうにふふふと息を吐いた。低い声で、日本、ぺしんと叩かれるように呼ばれ、実際書類の束が鼻先に突きつけられた。ようやく目を開き受け取ったそれをしっかり握る。が、なかなか焦点が合わず腕をぐいと伸ばさなければならなかった。
「そろそろ老眼鏡がいるか」
「調達してきてくれます?」
「自分で行け」
「甘えさせてくださいよ。老い先短い爺さんなんですよ私は」
「もう十年もおんなじこと聞くが」
 十年。日本を初めとして港が、島が、国が海へ沈没し始めて十年。
 沈没すべき国はほとんど沈没し尽くしたのか、神が飽きたのか、急激な地殻変動に地球がつかれたのか、沈没現象は最初の一年をピークにほぼ収まり大幅な世界地図の更新は行われなくなった。しかし資源や技術を持つ国が真っ先に沈んでしまったことと、また思い出したように予想もつかない地が沈んでしまうから各国のネットワークは寸断されたまま、新しい衛星の打ち上げもなく引いては断線させられる電話線に残りの人生を費やすこともばからしく、結局人々は手紙を書きそれを海渡る船に託した。日本が年に一度受け取るのはオランダが一年をかけて見聞きした世界の状況で、表紙に阿蘭陀風説書と墨書きしたのはオランダの旧いジョークだった。中身はオランダ語。翻訳の手間賃まではもらっていないのだ。日本は丁寧な仕草で紙を捲ってはゆっくりとそれを解読し、オランダは二杯目のポートワインで唇を湿す。
「ボルス・ジンの味が懐かしいですか」
 紙面から目を離さず日本が尋ねた。
「そのうちどっかに工場作るさ」
「お手伝いしますよ」
「カネのあて、あるんか」
「お金で買えないものがこの頭には詰まっていますので」
「あほう。技術も知恵もカネで種を買うてカネで畑を耕すんじゃ」
「ではオランダさんが買ってください、私を」
 オランダは、あほう、と繰り返しグラスの中身を飲み干す。
 付録の世界地図を広げる。ヨーロッパは十年前に巨大な地中海のようになったまま、特にもう沈むだけのめぼしいものはない。さながら失われしモン・サン・ミッシェルのごとくして海の上に浮かぶヴァチカン。峰白く聳え立つ永世中立国の様は神々しいばかりである。大西洋上のトーチカにいまだグレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国と長ったらしい名前が律儀に付されているのはオランダのジョークというより海上要塞の上で幼い弟と二人王国の威厳を守り続けている自称紳士の主張が強いからに違いない。タヒチで長い休暇を楽しむフランス。残された森林を守ろうとするドイツと、輸出に勝負を賭けたいアメリカ・カナダの二国。皆さんお元気そうで、と白い指がもう長く顔を見ていない隣人たちを一つずつなぞり、最後にこのマカオへ辿り着いた。
 今や中国は大きな島だった。満月のような島。そこからまた少し、マカオ特別行政区は遠ざかっている。陸地が沈んだのではない。徐々に徐々に沖へ流されているのが十年分の世界地図をパラパラ漫画のように捲ればよく分かる。
 お前が俺を買え、と物憂く呟くのを日本は聞いた。
「あなたを?」
「俺と、俺の船」
「港も持たない私が?」
「富士山がある。活きた火山は銭になるやざ」
「また地熱発電の話ですか…」
「小型化はお前の十八番が」
 エネルギー売って銭作って富士山に港作ろっさ。他人事のように言う。たしかに他人事だけれど言葉の軽い調子が珍しく日本はようやく風説書から目を離して隣を見上げた。オランダは火のないキセルをくわえ軽く頬杖をついていた。
「火」
「うん」
「お貸ししましょう」
 マッチを擦る。紫煙をオランダはもったいなさそうに吸い、目を閉じる。鼻から懐かしい陸の匂い。胸に紫煙を贅沢なほど満たして、唇の端をほんの少し持ち上げる。
 坂の下から二胡の流れに逆らってだらしのない足音が上ってくる。底の薄いサンダルがぺたんぺたんと間抜けな音を立てた。あ、とオランダが口を開けた。ポルトガルだ。伸び放題の明るい茶色の髪はゆるゆると波打ちながら背中に流れている。
「オランダやん。今年ももうそんな季節か。早いなー」
「お前、あそこにおらんのか」
 眉間に皺を寄せたオランダが親指で高いビルの上を指す。ポルトガルはへらへら笑い、二人の前にしゃがみこんで石畳の上の缶ビールを取り上げた。気の抜けたそれを飲み干し、不味い、とオランダの握るポートワインをねだる。オランダは頑として首を縦には振らない。
「ええよな、澳門の二胡。一流や。澳門の目の前に俺がおって澳門が思いの丈を弾いとうかと思う。俺ここにおるのに」
「浮気をなさっているのでは、澳門さん。あなた以外の想い人を目の前に弾いているのでは」
「意地悪言わんと日本、泣いてしまうわ」
 結局三人でだらだらと飲み、隣の露店から買ったつまみをオランダは他の二人に分け与えず、日本はキス一つを売って小魚を手に入れたがポルトガルはディープキスをもっても何も得ることができなかった。オランダはポルトガルの目の前でポートワインをラッパ飲みに飲み干した。
「で、さっきの話」
「澳門さんの新しい愛人ですか」
「やめて日本、違うって。お前らが新しい港作るゆう話」
 詳しく聞かせてや、とポルトガルは緑色の眸で二人を覗き込んだ。



 ステージの出演料で夜食用の牡蠣を買いアパートに戻る。今日は遅くまで弾いたから露店もどこも店仕舞いをしてしまい、路地にはビールの看板だけ光っていた。ポルトガルはまだ帰っていないのだろうか。窓が暗い。狭い階段を上り、枠に対してサイズの合っていないドアを開ける。部屋はぼんやり明るかった。窓がほの白く光っていた。澳門は窓ガラスに頬を寄せて夜空を見上げた。薄い雲を越して丸い月が見える。もうすぐ満ちる月。牡蠣の入ったビニール袋を床に放ったまま、澳門は仕舞ったばかりの二胡を取り出した。ベッドに腰掛け試しに、音、ひとつ、ふたつ。それから流れ始める。
 今年もやってきたオランダの船が入ったのは知っていたけれど、どうということはない。検疫であったりの仕事は全て人間の行政の手が行い、その場に澳門のいる必要はすっかりなくなってしまった。まるで街の貧乏アパートに住む庶民と変わらないし、実際そんな生活が十年続いている。ポルトガルもだ。十年の間に集めた情報ではイベリア半島は一片のかけらも残さず沈んでいる。しかしポルトガルが消えることはない。人間の存在、国家というものについて日本が語ったように土だけが彼ら国ではないという証だろうか。それでも澳門は彼と離れて日雇いの舞台に出るたび帰り道を襲う悲しさに慣れなかった。ドアを開けてポルトガルがいなかったらどうしよう。そんなことは十回の内七回はざらでしかも澳門の心配は杞憂であり、おおよそポルトガルは朝まで卓を囲んで財布を軽くして帰ってくるにすぎない。分かっているけれど、これが最後の時だと誰に分かるでしょう。早く帰ってきてくださいと想いを音色に乗せればマカオの夜は全体が濡れたように濃く青く沈む。
 朝になってもポルトガルは帰らなかった。澳門は二胡を丁寧に布にくるみ床に放ったままの牡蠣をシンクに沈め、ちょっとため息をついた。今朝は雲が厚い。もう少し寝ていようかと思いもするけど、窓のガラスは違う規格のものを無理に嵌め込んだものだから上部に隙間が空いていて、今朝は吹き込んでくる風が冷たかったのだ。一人で占領して広いベッドでもないのに、と昨夜の服を脱ぐ。タイルを貼り替えた浴室で不意打ちで氷水のように冷たくなるシャワーを浴び、また時々じっと耳をすました。数秒。凍てつく水に打たれた直後の急に熱い湯を顔面から浴びた数秒、世界の上に一人きりになったような気がした。それは孤独ではなく自由だった。不意に幼い頃の記憶が今の瞬間に直結した。港で船を待つ間、澳門はポルトガルからもらったロザリオで遊びながら様々な想像をした。船で港を出る時はどんな気分がするのだろう。リスボンを出航するポルトガルは、マカオの港を出る時と同じ気分なのだろうか。淡い霧のように消えた自由の余韻を澳門は目をつむって味わった。大航海時代の冒険心、海への恐怖、新しい陸への期待、ままならぬ船出も幼い澳門を置き去りにする感傷もあったかもしれない。それでも船の舳先に立ち目の前の海を見据える眸は透き通って、胸にはただただ自由があったのだろうと澳門は遠い日の想像を終着させた。
 大家の老婆は三年前に死んでしまい、今はその娘が継いでいるが娘も既に老婆と呼ばれる歳で傍目には代替わりしたことが分からない。スープの味もそっくりだから澳門にも三年前の葬式が現実のものだったか時々曖昧になる。しかしいつものプラスチックの椅子にポルトガルの姿はなくて、澳門のふざける心はしゅんとしぼんでしまった。スープを半分残したままぼんやり座っていると郵便配達夫がオランダの報告書を届けにきた。
 船。
 船さえあればどこへでも行ける。どこへでも。彼らが土地に縛られる存在でないことはこの十年で実証された。澳門は音を立てて立ち上がった。書類がテーブルの上からこぼれひらひらと路上に散らばった。幼児たちがさっそくそれを拾って紙飛行機を作り始める。
 港へ…!
 急激に胸が熱くなり心臓が早鐘を打つ。けれど足が動かない。胸の上でロザリオはひんやりと冷たいままだ。羊歯は…、羊歯は……。
 ゆっくりと音さえ立たないほど静かに澳門は腰を下ろした。熱を持った手が冷たいロザリオに触れる。自由を胸にした男を誰が止められるだろう。もし止めようと思うならば澳門は今すぐ砦に上ってオランダの砕氷船を開始としアイス・ボートもマカオの船も焼き尽くさなければならない。そうしてもいいのだけれども。
 カプチーノ、と澳門は注文した。老婆が奥に向かったということは準備があるということだろう。世界の終わりのクライマックスまで愛の大爆発をとっておいてもいいけれど、この先十年、百年がどう動くか分からない。地図を見ると中国からどんどん離れてゆくマカオ。彼の影響下にない自分というのも初めてだ。まったく未来の予想がつかない。ならば今日、試しに爆発させてもいいのだが、それを想像しただけで澳門はすっかり満足なのだった。運ばれてきたカプチーノを飲み、おかわりもした。
 午後はまだ早い時間からマカオタワーで二胡を演奏する。六十階からの眺望は澳門の自慢の一つで晴れていれば尚いい。沈没現象が始まってからすっきり晴れた日の少ないマカオだが二胡を奏でるうち淡い陽が射してきた。砂色の海、黒い浜辺で沈黙する白い貝殻。哀しみを弦にのせ音に没入する。かすかに口が開いている。そこへ滑り込んだ懐かしい息。そっと顎を持ち上げ、澳門は視線を走らせた。テーブルの一つにポルトガルが座っている。目が合い、相手はわざとらしく手を振った。澳門は口元でだけ笑って演奏を続けた。
 拍手が天井から降ってきた。澳門は静かに弓を下ろし上を見上げる。拍手をする人々も不思議そうにあたりを見回す。ざわめきは突然沸く熱狂となった。青い空から銀色の雨がふる。青に銀にひらひらと光る雨は小さな魚だ。イワシだ。
 イワシの雨は一時間も降り続けた。マカオの上空だけのことらしく後日香港から、ヤバいんですけど、と短い手紙が届いた。雨の最中ポルトガルはマカオタワーの展望台から命綱を繋いで外周を歩き回り、確かにこれは普段からマカオタワーのサービスの一つだけど、鍋やらバケツやらを要求しそれをいっぱいのイワシで満たした。
 ビニール袋いっぱいのイワシをそれぞれ両手に提げて坂を下る。途中、重いと言ってポルトガルは道ばたに座り込んだ。
「どうしたんですか、だらしない」
「アカンって。セニョール夜通しさっきまで飲んでたんやもん」
「楽しそうですね」
「オランダと、日本とな、話してん。新しい港の話」
 顔を出した太陽が雨に濡れた路地や塀の向こうからはみ出す緑をきらきらと照らし出す。また丘の上でさあっという音がした。驟雨が下りてくる。澳門はポルトガルの手を引っ張って軒下に入った。赤と白に染め抜かれた庇の下で、澳門も重たいイワシの袋を下ろす。建物の隙間から顔を出した猫が狙う。すぐまたしゃがみこんでいたポルトガルが悪魔の真似をして追い払った。
「新しい港を目指して…」
 澳門はしゃがみこみポルトガルと視線を合わせた。
「出発ですか?」
 緑色の眸がほほえみ、首が横に振られる。澳門が首を傾げるとポルトガルは身体を傾けて澳門にキスをした。
「オランダが日本に、フジヤマに新しい港作りたいんやて。俺もかませてくれぇ言うたら断られた」
「……残念でしたね」
「ええわ。港作るより船に乗る方が得意やん、俺」
 だから、澳門、とポルトガルは澳門の腰を抱き寄せる。足下のビニール袋がバランスを崩し、天気雨の降る路地にイワシが散らばった。
「セニョールのために、船、買うて」
 イワシこの百倍も獲ってきたるよ。その声は胸をくすぐる極上の郷愁を含んで耳を、頬を撫でる。ロザリオの下で胸が一瞬震える。しかしそれはだんだん喜びの振動となって、澳門はたまらず喉の奥からくくくっと笑った。
「駄目です」
 塀の上から猫がじっと見下ろしていた。さっき降り忘れていたらしいイワシが一匹、庇の上で跳ねてぺたんと路地に落ちた。全てが天気雨の乱反射させる午後の陽の中で眩しげに目を細め、二度目のキスもポルトガルにだけ聞こえるよう囁きかけた澳門の横顔も、まばたきをしない眸でそれを見つめていたのはそのイワシだけだった。






2016.9.29