ぐうたらイワシと銭ゲバ眼鏡 4





 朝食の薄いスープのように白く澄んでいるように見えて足下はおぼつかず手を引かれてでなければ歩くことができない。ここは自分の街なのに、靴の裏に感じる感触も響く足音も澳門の血肉に馴染んだマカオのようでなく、もしかしたらここは本当にリスボンなのかも、と澳門は両脇に迫るヨーロッパ風の建物の影に微笑した。正面からは滝の音。幸せが滝のように降り注ぐ光景をポルトガルは短い言葉で話した。それは幼い頃寝物語に聞かされた昔話か海の冒険の話の結末部分だった。今度は私もその場所に連れて行ってくださいね。澳門は囁く。霧の中でポルトガルが振り向き目を細めて笑う。噴水のたもとに二人は腰掛けた。ポルトガルはあまりに薄着だった。この街に到着してから一張羅のひよこ色のズボンにチェックのシャツ。上着をなんとか引っかけただけの姿に寒気は容赦なく食い込みポルトガルはたびたびくしゃみをする。澳門の長袖はニットだったしマフラーも巻いていたからくしゃみはそれほど寄りつかなかったが、それでもじっとしていると氷の芽が肌に根を張るような冷たさに襲われた。二人は少しずつ身を寄せ合った。背後から幸せの降り注ぐ音。首輪のない犬が左からぬっと現れて階段を上り右手へぼんやりと消えてゆく。ヨーロッパ風の街並みに影のような人々。誰も彼もが静かで今日はポルトガル以外の誰の声も聞いていない。
 霧が灰色がかる。空の向こうで陽が落ちたのだ。くすんだ色に沈んでゆく霧が惜しい。ずっと太陽が沈まなければいいのに。そう呟くと、誰かさんみたいなことぉ言うて、とポルトガルが小さく笑った。
「日が暮れなんだら澳門も困ってまう、違う?」
「賭博は夜のものとは限りませんよ」
「でも大人の稼ぎ方するならなぁ」
「ふふ、夜」
 相手の肩に頭をもたせかけ澳門は含み笑いをした。
「セニョール、どんな夢を見られましたか」
「何、突然」
「知りたいんです。昨夜どんな夢を?」
 寝ていないとポルトガルは言い張った。嘘、と澳門が笑うと、ずっと澳門の寝顔を見ていたのだと言い張った。夢だとしても夢の中で澳門の寝顔を見ていた。では自分はポルトガルの夢の中で眠る自分の夢の中にいたのかもしれないと澳門は言う。澳門は夢の中でずっとポルトガルの胸を撫でていた。ロザリオを失った胸に羊歯が生えてしまわないように、人の肌のぬくもりで澳門はポルトガルをあたためようとしていた。
「ありがと」
 ポルトガルが見たいと言うので澳門は襟からロザリオを引きずり出す。澳門の掌の上、ゆっくりと羊歯を育たせるロザリオとその澳門の掌をポルトガルの手は包み込んだ。澳門は目をつむり、半身をポルトガルに預けた。自分の憧れた七つの丘の都、あのリスボンは海の底に没したのだと言葉にされなくても分かっていた。しかしこうやってポルトガルに身体を預ければ彼の中からは大西洋の波音が聞こえ、甲板にさすうららかな陽が感じられ、澳門の大好きな潮風がこの冷たい夜霧の中でも頬を撫でる。
「俺の鼻息くすぐっとうない?」
「いいえ、ぜんぜん」
 霧もビルもヨーロッパ風の建物も、背後の噴水も灰色から黒へ沈み始めていた。点る灯りがない。今日こそ沈むかもしれない。恐怖はない。宗主国と運命をともにするのが本来の定めならばこれはずっと昔から決まっていた運命なのだ。静寂のセナド広場には他にも沈黙する人々が佇んでいるようだった。波打つ霧の下で皆、待っている。
 喉の奥にざらついた匂い。ハッとして澳門は身体を起こした。胸の上でロザリオが揺れる。ポルトガルの両手がふわりと浮き上がりそうになる澳門の身体を支える。本来世界遺産の広場に響くはずもないタイヤの音が、スキール音がした。ヘッドライトが霧を裂く。噴水の円周の前にタクシーは止まり、黄色い光が二人を照らし出した。
「澳門さん」
 日本が静かに滾っている。この港へ来て初めて焦っている。
「どうかしましたか」
 澳門は立ち上がり逆光の中で苦しげな顔をする日本を見上げた。
「残念ながら私はあなたの橋頭堡ではなかったのです。あなたは逃げるべき場所を見誤った。私は沈みます。運命はこのとおり」
 手を差し伸べポルトガルを引き寄せる。
「既に受け入れていますから」
「モンテの砦へ行ってないんですね」
「何故、行く必要が?」
 ふうっと息を吐き出した日本は一歩、二歩とゆっくり歩いて後部座席のドアを開けた。あの時のようだ。病院前で澳門の愛車をほしいままにした姿と一緒。
「お乗りなさい。澳門さん。ポルトガルさん。その前に一ついいことを教えましょう。私は今日も測量をしましたので、あなたの港が一ミリメートルたりとも沈んでいないと断言できます。安全なる港、だからこそ私は砦からの光景を見ていた方がいいと思うのですよ。タダで船を通して良かったことなどこの世が始まって一度たりともありませんから」
「……何が見られると」
 助手席のドアが音を立てて閉じる。悔しさがあるが致し方ない。それは隣のポルトガルも同じようで郷愁の眸をやや暗くし頷いた。後部座席のドアが閉まるのを待ちかねてタクシーは走り出した。
「霧が晴れたら広場への自動車の乗り入れ、厳しく追及させてもらいますよ、日本」
「ご随意に」
「悪魔の手足」
「そんな科白を吐けるようであれば心強い」
 階段をタクシーが上る訳にはいかない。肉体を使っての歩行となると途端に日本は二人に遅れを取った。それでも二人は待った。あれだけ不吉な予言をしたのだ。その手で指さしてもらわなければ。しかしモンテの砦から見下ろす景色は暗かった。街に灯りはない。カジノまで息をひそめている。ベネチアンホテル。マンダリン・オリエンタル・マカオ。ホテル・リスボア。できたばかりの修道院のあの光も。
「灯台に、灯を」
 澳門とポルトガル、二人の眸が同時にギア灯台に注がれた。教会へ連絡を。電話は。通じないのだ。携帯電話はどこかになくしてしまった。澳門は波打つニットの胸の上でロザリオを握りしめた。灯台に灯が入り、まっすぐ沖を照らした。光はゆっくりと回転を始めた。海面の鱗が銀色の光を反射する。日本はまだ荒く息をついている。しかし、見るべきものの姿は二人より早く捉えていた。あれを、と日本は空に手を差し伸べた。
「今も時々、十年に一度ほど? 私は夢を見ます。海の夢。私は島国だった。色んな船が私を目指してやってきました。そしてどんな船も、どんな旗も、はなから安堵で迎えたことなどありませんよ。あの旗であっても」
 三色旗。
 新調したばかりの眼鏡を持ち上げ、澳門は砦の石垣から身を乗り出した。レプリカの大砲を抱え身体を支えながら、もっとよく見ようと霧の海の上に身を乗り出し、そして息を呑んだ。ポルトガルが澳門の腰を脇に抱え、やはり同じように身体を乗り出しては奥歯を食いしばっていた。
 赤、白、青の三色旗。かつても彼らはこの砦からあの旗を見た。要塞の絶対の自信を持って彼らの艦隊に対峙した。日本は石垣を背にずるずると座り込み、懐から煙草を取り出す。マッチは湿気っていて二本を駄目にした。三度目の正直で点った黄色い光はほんの短い間、日本の横顔を浮かび上がらせた。澳門はそれを睨みつける。灯を吸いつけた日本の手からマッチの火は放られ、靴の踵でにじり消す小さな断末魔が聞こえた。それでも尚澳門は日本を睨んでいた。
「恐い顔だ」
「…これが………あなたの目的でしたか」
「まさか」
 煙を吐き出す間、二人の間に沈黙が横たわる。ポルトガルは耳だけすませて、視線は灯台の灯が露わにしたその船の姿に釘付けになっていた。三色旗。オランダ国旗を確かに彼らの眸はとらえた。しかしただの船がこの海を、どうやって。白く大きな船は軍艦には見えない。全ての海が凍っている訳ではないと、ここへ来るまでポルトガルは知っていたがそれでも疑問符を浮かべずにはいられなかった。氷の敷き詰められた海を、どうやってあの船はこの港に近づこうとしているのか。
「オランダの……砕氷船? でもあんなん聞いとうか、澳門…」
「日本」
「だから、グルなんかじゃありませんよ。誓って」
 何に誓えばいいのか分かりませんけど、と日本は右手を挙げる。
「一応、ニュースになったことはありましたよ。オランダさんが作った富豪専用の砕氷船です。カネと時間のある人々が、それこそこの世の春を楽しむことのできる人々が心の内にある色あせない冒険心を満たすために作った船。スイートルームの快適さを保ったまま北極にだって行ける代物です」
「…あなたを迎えに来たのでは?」
「だとしたら…嬉しくないとは言いませんが………違うでしょうね。きっと違います。オランダさんのことですから、たとえ私がこの港にいると知っていても乗せてはくれないでしょう。私はオランダさんが唯一信用する金も、それどころか銀さえ持っていません。今夜もあなたがたをここまで運ぶタクシー代を払うので精一杯です。煙草だって…、はは、ショートホープが吸いたい」
 またしばらく黙り込んだ日本は深く煙を吸い込んで、惜しげに静かに吐き出した。
「私の身体が沈み、また様々な国が沈み始めました。しかし私はまだ生きています。ポルトガルさんも。オランダさんもその一人。沈んだ国の国民が他の国へ逃れて生き延びたのも事実。人々が生きている。国家がある。我々国家というものを構築する存在全てが死に絶えるまで世界は存在し続けるのです。私たちは生き続ける。ならば、やることは一つですよ。生きなければいけません。生きねば。私の国で大ヒットした映画のキャッチコピーでもありました。いざ生きめやも。さあ、生きてやろうという意味です。オランダさんはそれを理解しているにすぎません。そしてそれを実行するのに躊躇がない。私は……」
 ざりざりと足下の砂を摺りながら日本は立ち上がり、砦に頬杖をついた。手が口から煙草を離した。小さな赤い火がまたほんの少しだけ日本の横顔を照らした。その目に、澳門は驚いた。表情の読めないあの黒い眸が涙を浮かべている。
「思い出しました……昔、あの方の船が私の港にやってきた時、近づく三色旗を見つめて…私は…恐かった……。あなたもそうではありませんでしたか?」
 求められた同意に頷き返すことなく、澳門は船に目を戻した。
「無理や」
 低く呟く声に澳門も、そして日本もやや物憂げながらポルトガルを見上げた。
「あないなデカい船、この港には入らん。マカオの港は浅いんや。砂が…」
「セニョール……」
「いくら氷を砕いても、この海と港がお前を守る。大丈夫や、澳門」
 ふううっと音を立てて日本が煙を吐いた。吸い殻を砦から捨てようとする手つきにまた睨むと日本は苦笑して燃えさしの煙草を口の中に放り込む。吐き出されたのは青白い煙でそれもすぐ風に流された。霧が流れ出していた。陸から吹き下ろす風が路地を白い川に変え、港から海へ吐き出される霧は滝のように見えた。押し寄せる霧を割りながらオランダ船は接近を続けたがある位置から動かなくなった。投錨されたのを見てポルトガルが指さす。澳門も頷く。
「どうなさいますか」
 今度は日本が尋ねる。
「再び大砲を据えて、迎え撃ちますか?」
「昔話の決闘ではあるまいし」
 澳門は口元に微笑を浮かべ、自分の分の煙草とポルトガルの口にもそれをくわえさせ手で囲ったライターの火を点した。
「生き続ける限り生きるしかない。そのために海洋を支配したいというのがオランダ氏ならば、船一つで何ができるか拝見しようではありませんか。陸を失い、船一つで何ができるのか。甲板で豚や鶏を養い、残された少ない土でトマトでも育てますか? 塩と氷の水に囲まれて生き続けられるのであれば素晴らしい、進化した国の姿という訳ですね。今は本土で忙しいミスターにかわり私から祝福申し上げましょう。しかしもし…海の上でのみ生きることは能わない…助けが欲しいということでしたら……あちらの態度次第ですが、港の私は交渉のテーブルについてあげなくもありません」
 自称爺さんは実質爺さんでもあるらしく下りの階段半ばで膝が笑うと言って動けなくなった。仕方なくポルトガルがおぶってやり、澳門は日本がポケットに入れていた携帯電話で何枚もその写真を撮った。澳門の笑顔は通りの両脇によみがえった窓の灯に照らされ、誰の目にも見ることができた。三人は修道院を目指して歩いた。澳門が白い一枚のチップを魔法のように増やしていく様をポルトガルは夜が明けるまでずっと見つめていた。途中で寝てしまった爺さんはタクシーに乗せてどこかへ追いやった。
 空には雲が多いが霧の晴れたおかげで明るいマカオの港に手漕ぎのアイス・ボートが到着したのはそろそろ昼食時になろうかという時だった。
「水と、食料と、船を動かす油。それから? 何をご所望ですか」
「お前」
 冗談を言うような表情ではないが、そう言われても澳門には一片の照れさえ浮かばなかった。白い頬に美しく微笑を浮かべ、それから?と重ねて尋ねる。
「しばらく寝るとこ」
「大歓迎ですよ。対価さえきちんといただけるのでしたら」
 いくら風格のある二人だとしてもベイサイドのオープンカフェの木のテーブルに響くにはインゴットの音は重い。けれども澳門の耳にはそれは心地よく響いた。チョコレートでも囓るように澳門はそれに噛みついて満足げに笑った。
「ようこそオランダ氏、私の港へ。存分に楽しんでいってくださいね」
 エッグタルトもどうぞ、自慢なのです。カプチーノのカップの隣に差し出すと、タダより高いもんもない、とオランダは一口でそれを食べた。






2016.9.28