ぐうたらイワシと銭ゲバ眼鏡 3





 ブラインドの隙間から射す陽が目蓋の上を焼き眩しくて目が覚めた。枕元の時計を探るが手は空をかくばかり。あきらめてぱたりと落とすとそれはくしゃりと柔らかにウェーブする髪を無造作に掴んだ。澳門は薄目を開いて見下ろした。ベッドの下半分に、ずり落ちないよう澳門の身体にすがるようにしてポルトガルが眠っている。目覚まし時計は彼が小脇に抱き締めていた。澳門はそれを見下ろしたまままたシーツの上に手を滑らせた。眼鏡がない。ベッドから下りようとするとポルトガルがシャツを握り締めてぐずる。その手を柔らかく解いてやりようやく下ろした足の下、ぱりりと音がして冷たい感触。またやってしまった。これで眼鏡を踏むのは何度目だろう。
「五回目、やで」
 ポルトガルの両腕が腰に絡みつく。
「わざと落とされたのですか」
「寝相の悪さはお互い様やん」
 あなたが来るまで私の寝相は悪くなどなかった。そう思ったけれど澳門は口を噤み腰を曲げて眼鏡を拾い上げた。ツルが歪んでいる。小さな螺子が転がって拾おうとするより早く床板の隙間に消えた。
 冷蔵庫は効きが悪くビールがぬるい。しかし二人は毎朝のように――と言っても昼近い――缶一本を半分ずつに分けたものを飲み干して味気無さ物足りなさへの愚痴を天井に向かって吐きながら狭い階段を下りる。路地に面して緑色のビニールの庇が出ていて、その下にはプラスチックの椅子が幾つか並んでいる。どれも日に焼けて白が淡いクリーム色になっていた。ポルトガルの大きな身体が座ると今にも壊れそうだ。
「恐いわぁ」
 大袈裟に怖がってみせるポルトガルに、澳門は木でできた丸椅子を指差す。大家の曾孫お気に入りの椅子で、今朝も食べこぼしたのだろう何かの汁が染みを作っていた。ポルトガルはその上に座り、ばぶう、とおどけた。澳門はため息をついて老婆が食べ物を運んできてくれるのを待った。干した魚と薄いスープ。鰯が食べたいとポルトガルは目をしょぼしょぼさせる。
「なあ澳門、網と船買うてぇ」
「買って、どこへ行くのですか」
「セニョール、澳門に毎日イワシ食べさせたるから」
 軽口。眸に郷愁。小舟で漕ぎ出し釣りをすることさえもはや叶わぬ夢と成り果てたことを、船ではなく陸路でここまでやってきたポルトガルだ、口にするだけ哀しくなるのは分かり切っているのにこの軽口をやめない。日本も還らない投銀のことを毎朝のように口にした。二人ともマゾなのか、頽廃の空気が感情の箍を緩めているのか。澳門はイベリア半島が、大西洋に面する美しい岬が、リスボンがどうなったかを知らない。ポルトガルの口は浮薄で頼りない科白を吐き出すばかりで大事なことを一言も語ろうとしなかった。澳門が憧れた都の行く末、あるいは成れの果て。ヨーロッパから大陸の反対側のここに至るまで苦労が、胸を抉る光景があったはずなのに、何も。それが聞きたいと澳門は強く願っていたのだけれど、浮薄な言葉とふざけた態度のポルトガルを見ていると落胆に似たあきらめが胸の中を霧のように広がってもう何も言えないのだった。あの夜港で何をしていたのか、カネと叫んで海に落ちる銀を拾おうとしたのは何故か、それさえ聞き出せないまま。澳門はひとりで階段を上る。ポルトガルは今朝二本目のビールに口をつけている。部屋に戻って長袖の上に上着をはおり、型の古い大きなカバンをたすき掛けにかける。バスルームだった場所にはタイルが半分剥がれて床に散らばっている。そこへ無造作に突っ込まれた自転車を引き出し、抱えて狭い階段を下りた。
「じゃあ」
 ポルトガルを振り返ると干し魚とビールをいっぺんに口に突っ込んだポルトガルがもふ、もふ、とすぼめた口から息を吐き出した。澳門は地面を蹴って自転車で走り出す。眼鏡がないおかげで周囲の景色もぼんやりと霧がかって見えた。どうしよう。先に眼鏡屋に行かなければ。そうは思っているのにペダルを漕ぐ足は港へ向かう。雲が薄く空一面に引き伸ばされ晴れとも曇りともつかない天気だった。銀色の鱗に覆われた海面は冷え冷えとした風を街に送る。しかし心落ち着く潮の香を澳門は胸いっぱいに吸い込んだ。私はここで生まれた。私はここで育った。ここは死ぬまで私の場所。古いカバンから何枚ものコピーされた地図を取り出す。番号順にバインダーに挟み、赤いボールペンを右手に握った。今や海岸線の保持が銀に次ぐ最大の関心事だ。特に中国は陸路でも意地でもと毎日の報告を求めている。それが澳門の耳に届くまで時間がかかったことを中国も不審に感じてはいるが、中国自身がマカオに滞在する日本やポルトガルの気配に感づかなかったことに無頓着であるのは既に中国の中にも異変が始まりつつあるのだと澳門の胸の奥をひんやりせしめた。ともあれ中国は澳門のことを忘れていなくて海岸線の修正図を毎日欲しいと言われれば抗えない。というか暇つぶしにはもってこいなので、こうやって澳門は毎日自転車で海岸線を走り回るのだった。既に行政は人の手でのみ行われ、澳門がセナド広場に行くのはマクドナルドを食べるためだ。冬の装いの人々。不思議な光景。皆、厚着をしている。澳門は自転車を停め、噴水の前に腰を下ろした。眼鏡のないままぼんやりと眺めればリスボンのように錯覚できなくもない。私の永遠の夢の都。都の主は今頃、アパートの路地の裏側の路地に入り込んで麻雀に興じているだろう。せめて煙草代くらいは自分で稼いでもらわないと困りますよ。澳門は独り言を呟いた。
 その日まとめた地図は輪ゴムで止めて本土宛てに投函する。これが本当に中国の手元へ届いているのか、届いていてもいなくても中国はヒステリックに催促するだろう。夕方になると澳門の暇つぶしもやや投げやりになる。灯りの点り始めたカジノへ向かうと、目の前にタクシーが止まった。窓が開く。後部座席から日本が顔を覗かせる。身なりからして本格的にジャンケットで稼いでいる模様。
「まだ生きてらしたんですか」
「眠らぬ都の御加護でしょうね。老い先長くない爺ですがこうして生き延びています。あなたもお元気なようで、澳門さん」
 澳門が手の中でマクドナルドの包み紙を握りつぶすと、突っ込まないでくださいよ、と日本は両手で口を覆った。
「今日は耳寄りな情報を持って来たんです」
「お恵みくださると?」
「そう卑屈にならないで。あなたの港はいまだ一ミリの沈没もなく健在ですし、私たちがまるで人間のようになってしまったとは言え、命運はやはり私たちの内にある。あなたがこの港の唯一の主であることは変わりません」
「唯一の…」
「ああ、信仰はご自由ですから、この街が最も忠貞なる主の名の街で天にまします主こそ唯一とおっしゃるれば、わたくしはそれでも。また宗主国こそ、とおっしゃってもね」
 澳門は手の中のゴミを無言でタクシーの窓から突っ込む。
「国土とともに何か大切なものを失われたのではありませんか、日本」
 冷たく見下ろす澳門の視線はしかしするりと流され、日本はマクドナルドの包み紙を手の中で丸めるとくしゃりと口の中に放り込んだ。ぽん、と口から白い煙が上がった。唇の白い煤をぺろぺろと舐め取り日本は目を細める。
「私は毎日天主堂に行くのです」
 日本は両手を組みそこに息を吐きかけるように囁いた。
「あの場所には私の土を踏んだ人々が眠っている。私の過去が追い出した人々があの場所で安らぎを得て恐怖のない眠りについている。そのことが私を安堵させるなんて。私は今、どこの言葉で話しているのでしょう。けれどファサードの下に跪いて両手を組む時、私は確かに日本語で彼らに語り掛けているのです。私は言葉を交わしている。眠れる日本人の魂と。それから……もっと大きく偉大なものと。今日私は導かれ丘に登りました。まだ陽は暮れていない。お行きなさい澳門さん、あなたにもきっと大変なものが見えるでしょうから」
 タクシーが走り去った後、澳門はマクドナルドへ引き返し有り金の全てをハンバーガーと引き換えた。大きなポリ袋をサンタクロースのように担いでふらふらと自転車を漕ぎ、ようやくアパートに辿り着く頃にはパイドパイパーさながらに後ろから子供たちが列をなしてぞろぞろついて来たが澳門は決して振り向かずハンバーガーどころかピクルスの一つさえ与えなかった。アパートの前で片手にハンバーガー入りポリ袋、もう片手に震えながら自転車を抱え、顎を持ち上げる。喉を開く。
「セニョール!」
「……なに、何なん?」
 今日はどうにか勝ってくれたようだ。煙草をくわえた半裸のポルトガルが最上階の窓から見下ろした。
「助けてください」
「えぇ?」
「重いんです」
 自転車を抱えたポルトガルを従えて澳門は階段を上る。後ろから未練を断ち切れない子供たちがわらわらと押し寄せたが澳門が冷徹に、追い払って、と言うとポルトガルは狭い階段をみしみしいわせながら振り向きロバの声でいなないた。子供の悲鳴が一帯のアパートに共鳴し地獄の雄叫びとなる。ポルトガルは愉快そうに笑った。澳門は唇を結んだまま部屋のドアを開けた。
 ベッドの上に広げられたハンバーガーを二人黙々と食べる。半分を口にいれている最中にも次の包み紙を開き、澳門は夢中になって食べた。
「どないしたん、このマクドの山」
「……………」
「腹膨れてええけど」
「セニョール」
「うん?」
 澳門は食べかけのハンバーガーを膝の上に置き、ポルトガルの目を見つめた。ポルトガルは澳門の半分しか食べていない。
「澳門、ほっぺにケッチャプついとる」
 伸ばされた手を押しとどめ、澳門は件名に目の前の顔に焦点を合わせようとした。
「近頃、モンテの砦に足を運ばれましたか?」
「え? 何かあるん?」
 さあっと雨の降るように、冷たいシャワーを胸に浴びせられたように澳門は身体中の血が冷たくなって流れ出てしまったような気がした。ふらふらと揺れる身体をポルトガルの右腕が支えるが、逃げる。捩る身体も振り回す腕も自分のものではないようで、涙が湧き出た。胸に祈る。羊歯、羊歯、どうか今こそクルスを砕いて、このロザリオをバラバラにして。私はもうこの港を海に沈めて死ぬのです。
「澳門、どないしたん」
「あなたは……」
 声は裏返り、震え、無様に喉を引き攣らせた。
「ええ、あなたは、行くはずもない。もう行くべき必要などないのでしょう。この港は私のものです。私はひとりで生きていきます。誰にも傷つけさせない…」
「落ち着き」
「あなたが!」
 膝の上のハンバーガーを投げつける。バンズがふわっと宙を舞い、パテとケチャップは音を立ててポルトガルの頬に直撃した。ピクルスがずるずると滑り落ちる。それなのにポルトガルは大して驚いた顔をしていない。あなた…あなたが……、と涙が声を濁らせた。
「あなたがいなくても幼い私は死ななかった。これまで訪れたどんなに寒い夜、病に侵された夜の靄の下でも、あなたに焦がれて焦がれて狂いそうなほどだったのに私は狂わなかった…、私は死ななかった。もう平気です。この世の春の最後の最後までも私は私の銀と私の港を守ります。私はひとりだって平気なんです!」
 澳門はベッドから飛び降りるとドアに突進した。蹴り破り、狭い階段を駆け下りる。空が濃い紫に染まっていた。高いビルから享楽の窓辺から立ち上り林立する光は魚のいない水族館のようだった。その底で、明かりの少ない路地の真ん中で澳門は仁王立ちになりアパートの最上階を見上げる。もう靴音は響かない。自分を喜ばせた靴音は自分を追ってはこない。だいらん! がうちょあ! 大声で叫び足元のものを手あたり次第アパートの上階に向かって投げつけた。石も空き缶もイワシの頭も。それでも最上階の窓は静まり返っている。足元にもあまりものは落ちていなくてすぐ弾切れになってしまった。澳門は靴を脱いで投げつけた。
「…ひどない?」
 壁にぶつかり目の前に落ちてきた靴を拾い上げてポルトガルが弱々しく呟く。階段口の暗がりからのっそりと顔を出した。
「澳門いまめちゃめちゃ汚い言葉使うたよなぁ?」
「……いけませんか」
 私の街です、と澳門は両の拳を握りしめ足を踏ん張った。ポルトガルは澳門の足元にしゃがみこみ、ほら、足上げて、と足の裏の汚れを落とし靴を履かせる。
「帰ろ。な?」
 とても踏みつけやすい位置にある頭を澳門は見下ろした。何を考えるのか。何を思うのか。何もなかった。浜辺の貝殻が穴から乾いた砂をさらさらとこぼしたように何もなかった。やがて周囲の窓に遠慮するような灯が一つ、二つと点り、漂う夕飯の匂い。胃がぐつぐつと滾る。気持ちが悪い。澳門は顔を背け、しゃがみこんで胃の中のハンバーガーを全て吐き出した。ポルトガルの手が優しく背中を撫でた。声を殺して泣きながら部屋へ戻った。
 投擲の腕が素晴らしかったのかそれとも神の加護だろうか神通だろうか、投げた石の一つが窓に命中して割れたガラスが床に散らばっていた。ポルトガルが箒を探そうとしたが、それより廃材を手にした澳門が板でガラス片を寄せ集める方が早かった。ポルトガルはベッドの上を散らかすハンバーガーを床の上に積み上げた。あっ、と小さな声。澳門。窓の外に明かりが点り部屋は急に暗くなっていた。指を切り裂いた破片が足下で音を立てた。あっ、とポルトガルが壁のスイッチを探ったが電気は点かなかった。がしゃんと音がした。澳門は廃材を投げ出しベッドに身体を横たえた。のそのそとポルトガルが這い上がり、覗き込む。
「なあ、えっちせえへんの」
 吸っていた指を離し血の味のする舌で尋ねる。
「したいんですか?」
「したくないんですか?」
 唇が触れ合う。胃液の饐えた匂いがする。
「セニョール、考え直してください」
「あかん?」
「初めてなのですよ、私たち」
「初めてやったら、あかん?」
「キスも……キスだって………」
 また涙が勝手に溢れ出す。ちゅうちゅうとポルトガルが吸った。澳門、遅なってごめんな、と子供のようにしょげかえった声が暗闇の中で謝った。
 夜が更けるにつれて部屋はひどく寒くなった。ようやく訪れた夜明け、ブラインドが持ち上がったままの窓枠から見えるマカオの街はミルク色の霧の海に満たされ、二人はお互いのくしゃみに容赦なく叩き起こされる。鼻水が…と澳門は起き上がろうとしたがそれでもポルトガルは意地で澳門の身体をベッドに押しつけシーツにくるむ。シーツには点々と血の痕が残る。その下に横たわる裸体をポルトガルは弄りまわした。胸へのキスの半分はロザリオに落ちた。血の乾いた指はのしかかる胸をなぞる。
「セニョール、あなたのロザリオは」
「ここに来る最中、沈んでしもてん」
 床の上のガラスも風通しのよくなった窓も棚上げにして胃もたれするハンバーガーに目もくれず二人は狭い階段を降りる。霧はそこまで進入していてまるで海の底まで歩いて下りるような心地だった。大家が電気スタンドを灯台のように置いて二人を呼んだ。二人はいつものように緑色の庇の下で大家の薄いスープを飲む。それからポルトガルは澳門の手を繋いだ。歩いた。手を離さないように。繋いだ手がほどけてしまえば眼鏡のない澳門はもうポルトガルを見つけられない。ロザリオを失ったポルトガルは今度こそ沈没するだろう。手を引かれ、ゆっくりとした歩みで眼鏡屋に向かった。昼すぎまで待ってようやく澳門の視界はクリアになったが、しかし霧は晴れなかった。帰り道も二人は手を繋いで歩いた。携帯電話が鳴り続けていた。着信履歴は「ミスター」が二十件ほど。白紙の地図を輪ゴムで留め、澳門はポストに投函した。






2016.9.27