ぐうたらイワシと銭ゲバ眼鏡 2





 砂の敷き詰められた河口も浅い海も半島の路地の隅々まで深い青碧に満たす十月の夜、中秋節を過ぎて肌に触れる風が乾いて感じられたひととき、高層ビルの色付きシロップのような光を浴びながら纏ったシャツの下でロザリオが冷たく身を震わせた、澳門は喉の奥に真珠でも呑んだような心地でその冷たい息を空へ吐き出す。また羊歯が育った。
 取り返しのつかない場所に来てしまったと思った。初めてリスボンの土を踏んだ時と同じ、開かれたあまりに広くあまりに白く、何もないが故に清浄な世界を前にもう生きるしかないのだと思った。かつてのそのとき、喉の奥の冷たい息を吐く澳門の身体を抱き締める腕があったけど、今は高いビルに挟まれた路地で彼はひとりきりだった。道行く人の誰も澳門に注意を払おうとしない。
 それまで滅多にカジノでは顔を晒すことのなかった澳門がディーラーとして働き始めた時、人々は初めて目にする美しい花を崇め奉るように澳門に接した。若さに頼らず容姿のみに恃まず、澳門が身につけたアクセサリーは港のオリエンタルでありファサードの荘厳であり銀の色あせない官能だった。故にその白い手がカードの上を滑るだけで人々は魅了され、この世の春の終わりの最後の春を飾るに相応しい花の許には降るように銀が集まった。後方に少し離れて世話人まがいの若い男が佇んでいる。日本は足に鈴を巻かれ、今は澳門の下で銀の管理をしている。澳門にしろ日本にしろ計算は、特に金勘定は得意中の得意で澳門は誤魔化しをしない限り日本に遊ぶ金を約束した。とは言え完全に信頼をしている訳ではないのは足首の鈴で本人にも知れているけれど当の日本はそれさえ楽しんでいるようで、しとやかに後ろ足を退けば、ちり、り、と鈴の音。澳門の薄く白い耳に鈴の音が転がり込む時、目の前に並ぶ男たちは一瞬忘我の表情で澳門の背後に控える謎の青年に見惚れる。その間にも彼らの懐から運の赤い蝶が逃げて青い影が忍び寄るのが眼鏡の奥の眸に映り、ポーカーフェイスの下の澳門は微笑するのだった。
 仕事を終えると日本はその日の稼ぎを手にバカラの台へスキップを踏む。放っておいても宵越しの金を持たない爺さんは暗くなると眠くなる爺さんでもあるので時計の針が心配を指す前には邸に戻ってくることを知っているから澳門は振り向くことなくカジノを出た。ライトアップされた修道院は荘厳に慈悲深く迷える人々を誘い銀の袋を抱えた澳門を送り出した。また明日。
 車の窓をわずかに開けば冷たい潮風が鼻をくすぐった。カジノの花はまたその両目に涙を浮かべた。自ら車を港へ向かわせる。もう船の走ることのできない海を見て、確かめるために。確かめて、あきらめるために。ポストに手紙を投函して数ヶ月。返事はこない。その姿を見たという噂も聞かない。いいや、それよりポルトガルの現状さえ知ることが澳門にはできない。衛星放送とインターネットを失った世界に流行したのは最初に死の病。岸を蹴って海に身を沈める人、高いビルの上から最後のダイヴをする人、方法は派手でなくとも薬やガスや剃刀とバスタブのセットといったものもあり沈没の恐怖に耐えかねて永久の眠りを求める人は今でも少なくない。けれど、とっても多いというものではない。此岸と彼岸、地上と天国、三途の川、虹の橋、様々に呼ばれる境界を踏み切る勇気を備えた人間が全てではなく、沈没の恐怖と踏切の恐怖のどちらに近寄るのも恐れて現状というこの不安定な地面の上のほんの隙間に今一瞬の安寧を見いだしたい人々の間で爆発的に流行したのがラジオだった。今は海賊放送の全盛期。軒下で死を予言する占い師を開業するよりも手軽に簡単に誰もがラジオ局を開きたがり、誰もが誰かの声と今一瞬の恐怖を忘れさせる甘い言葉や音楽を求めた。大きな通りを走らせると車の受信機はめちゃくちゃにミックスされたジュースのような音楽の洪水を吐き出した。澳門は音量を下げ、この世のものとは思われない音楽のデタラメなメロディに一瞬の不安を拭おうとした。こんなもので慰められるはずはないのに。
 大して心配することでもない。日本を始めとして確かに世界の各国が沈没している。氷が自ら溶けることを覚えたように、ある日突然海に沈んでしまう。しかしその地球規模の死の病をはねつけているのが中国だ。日本が言ったように中国の領土はまだどこも、島一つ、港一つとして沈んでいない、自分も含めて。今はそれを確かめる術がなくなってしまったけど、ともあれカネは無事。銀さえ無事なら、と澳門は舌の上にコインを乗せ、ぺろりと裏返し、ねぶった。カチ、カチ、と噛む。舌先で模様をなぞる。金属の匂いが鼻につくのはこれが本物の銀ではないせいだろうか。私は人間ではないのだから、櫃に入った一杯の銀でさえ食べ尽くし飲み尽くせるとそれほどに思ったのですけれど(それほどに愛したのですけれど)。
 銀の価値も昔々ほどではなくなったかといえば、いいえ、そんなことはありません、と澳門は微笑する。たとえ世界の半分が沈み、人間の数が地球上で半分以下になってしまっても、である。この世の春の終わりの最後の栄華があるとして、それを購うのに必要なのはやはり銀に違いない。銀を口に含んだ澳門は鼻から吐く息で歌をうたった。指先がハンドルを叩く。唇の端を持ち上げると元気になったような気がして、今度こそ港に車を停めた。薄曇りの空は背の高いビルから放たれる甘ったるい光を反射して終わらない夕景の色に染まっている。海面には相変わらず深い鈍色の鱗が敷き詰められているが、頬を近づければ波音が聞こえた。そういえばあの魚はどこへ行ったのかしら。銀の鱗を持った大きな魚。国々は氷のように海に溶け落ちているのに、実際の海は極北の冬を迎えたような様、その冬季を連れてきたのがあの魚だった。あれは…神の御使いだったのかも。澳門はぷっと音を立てて銀を吐き出した。シロップの光を背後から浴びて銀色の抛物線は海面へ真っ逆さま。しかし惜しむ訳じゃない、澳門は水面の下に潜む神の御使いにその銀を捧げようとやおら思い立ったのだ。いつか天国の来る日のため、この身体をきれいにしなければならないのなら、まず、銀貨一枚。吐き出すのは不敬ではないのだった。澳門は口づけと同じように口の中の銀を海へ差し出したのだった。銀は氷の鱗に一度跳ねて高く澄んだ音を立て、そして飛沫一つ上げず海に吸い込まれていった。ノー・スプラッシュ。十点を上げなきゃ。
 その。
 時。
 パリッ。
 と。
 音が鳴った。蓮の蕾の開く音。銀と鈍色の鱗の押し迫る音。それから。日本が朝食のシリアルを食べる時の音。新品の札の封を切って捌く時目に見える音。ベトナムから誕生日に贈られたシャツを広げた時の音。新しいカジノがオープンしたピカピカのポスターの立てる音。ぱりぱりと。もっと身近な音があった。枯葉を踏む音。踏み砕かれた枯葉が道路の上で立てる音。誰かの靴の下で立てる音。カネやぁっ!と叫び声が響き熱い突風が澳門の横を走り過ぎた。港の縁を蹴って海面の上に躍り出る大きな影。シャツが風に巻かれて大きく膨らむ。ウェーブした髪が春のように踊る。そして真っ逆さまに一面に氷の浮かぶ海へダイヴした。違う!と澳門は咄嗟に胸の中で叫んでいた。顔は真っ赤。感じていたのは何故か羞恥。そして胸の中で繰り返し叫ぶ、あれは自殺じゃありません、自殺じゃない! じゃあ…あれは何なのですか? 胸の上でロザリオが震えている。冷たく凍えてガタガタと震えている。それとも震えているのは私。このロザリオを首にかけてくれた手。私を抱きしめた腕。もう衛星中継も見られないのです。インターネットでヨーロッパの近況を知ることもできない。私はあなた宛の手紙を出しました。この港で、この港とともに生き続けるしかない私を、見捨てられた港を、手に入れたのはあなただけ、あなたさえいれば、私はあなたにいてほしくて、私はあなたに会いたい、あなたが来てくれれば私の港は、私を、助けて、あなた………。
「セ……セニョール!」
 絶叫し澳門は海に飛び込む。すぐドレスが水を吸って重く絡みつこうとするが、恐怖はない、払い除ける。私は最も忠貞なる主の名の街、神が私を死なせはしない。あなたも!
「セニョール!」
 叫んで息を吸い、再び海に潜る。男の大きな身体は下へ下へ沈もうとする。澳門が泳ぐよりも速く。海流が? 海の波が沖へ男の身体を運ぼうとする。駄目、と澳門は胸を掴んでいた手も伸ばして沈む身体を掴もうとした。真夜中の海の底、甘やかな街の光は届かない。男の姿が黒い波に覆われ見えなくなる。澳門の口から大量の泡が漏れた。あなただ。沈んでいった身体はただの男の身体ではない。この港を育ててくれた男、七つの丘の街の安全な港から船を、手を差し伸べてくれた唯一のあなたの名はポルトガル。もう一度澳門の口から大量の泡がこぼれた。身体が海面に引っ張られる。抗う手足に濡れたドレスが海藻のように絡みつく。その時、ふわりと男の姿がまた浮かび上がった。澳門は両手を払った。ポルトガルの姿を隠していたのが沖へ向かう波ではないと初めて知った。薄い銀色の尾鰭が目の前を通り過ぎ、大きな魚が海面から水底へ向けて周回するとまたポルトガルの姿は浮き上がった。三度目で魚はポルトガルの腕を口にくわえ澳門の許まで運んだ。澳門は右腕に抱えた重たい身体を引き揚げるため必死に左腕と両足で水をかいた。
 乾いた冷たいコンクリートの上で水を吐き出す。すぐさま隣に伸びた身体に飛びついて厚い胸を拳を作って力一杯殴った。動かない。二度。三度。ポルトガルが口から大量の海水を吐き出すまで澳門はポルトガルの胸を叩き続けた。セニョール、何ですか、この服は。黄色いズボン。まるでひよこみたいな黄色です。ぺったんこのサンダルなんか履いて、いつものブーツはどうなさったんです。海を渡る船の上、桟橋の上、それにこの港で私を喜ばせたあの靴音は。
「ああ、セニョール」
 両の拳を心臓の上に叩きつける。死なないで。あまりに強く深刻な願いは口から出るのを恐れて両目からはぽろぽろと涙がこぼれた。ごぼりと水を吐き出したポルトガルは息もできないほど激しく咳き込み高い悲鳴を放った。
「セニョール!」
 澳門の叫びも真夜中の港に響き、これから入水しようとしていた両手を繋いだ若いカップルが携帯電話に遺書を打ち込むのをやめて救急車を呼んだ。
 二人で入院している間に日本の負けは澳門の銀を食い潰してしまった。日本はこっそり澳門の邸まで抵当に入れていたが、澳門が最後まで手に掴んでいた銀がそれを止めさせ、結局邸を売り払うことにはなったけれどもそれは二人の入院費として正当に病院へ納められた。しかし銀で雇った男たちは日本を捕まえることができず路地裏で全裸で発見された。澳門は証拠写真を破って窓から捨てた。写真を見て笑ったポルトガルもそれに従った。
 無一文の清らかな身体が二つ、病院の前に並んでいる。かつての澳門の愛車を背に表情の読めない若い男が立っている。本田菊と名乗るその若い男は後部座席のドアを開けた。
「お二人のためにアパートを用意しましたよ。もう富士山しか残っていませんが、これでも私は日本です。一宿一飯の御恩はお返ししなければ」
「よくお喋りする口ですね。何か詰め込んであげましょうか」
「銀を?」
「塩を」
「そう怒らないでください。この世の春の終わりに惜しむようなものなどないでしょうに。それに住めば都と言いますよ」
 アパートの前で澳門の愛車は売り払われ、そのカネは日本の手からアパートの大家に手渡された。
「それではご両人、わたくし、仕事がありますので」
 澳門が拳法を繰り出すより早く日本の姿は路地の向こうに消え、二人は狭い通りに取り残される。大家の婆さんは澳門の手に鍵を握らせて自分の部屋に引っ込んだ。
「……行こか」
 促し、ポルトガルが歩き出す。狭い階段を上りながら澳門は壁に手を這わせる。古いアパート。坂の途中のアパート。何階建てか外からは分からない不思議なアパート。築何年だろう。とても懐かしい匂いがする。鼻を鳴らすとポルトガルが振り返ってにこっと笑った。
 一番上の階はそれなりに日当たりがよく、明るく、だが暑い。天井には扇風機もない。ベッドが一つとキッチンと、他には何もない。蛇口をひねると薄緑色の水が出た。澳門はそれをしばらく放っておいた。響き続ける水音に階下から文句の声が上がるが二人は動かない。ベッドに並んで腰掛け、窓から外を見ている。空が見える。薄曇りの空がわずかに裂けて水色の空が見えた。
「腹、減らん?」
 窓の外を見つめたままポルトガルが言った。
「ええ…」
 しかし澳門は動かなかった。ポルトガルもそのままベッドに横たわり動こうとしなかった。また階下から罵る声が聞こえた。






2016.9.26