ぐうたらイワシと銭ゲバ眼鏡 1





 庭先に据えた甕からぱりぱりと蕾のほどける音がしてうっすら目蓋を開くと水色のカーテンが幾重にも重なるような未明の空気の下涼しい空気が鼻から喉へ通り、まるで秋季のようだ…、と微睡みと覚醒のあわいで何故か涙をこぼした。
 ひとりが眠るための寝台にひとりきりで横たわり、ひとりで目覚め、澳門は裸足のまま庭へ出る。石も土も湿って濡れていた。優しい女の肌を流れる涙のような透明な水が庭を濡らしていた。空を見上げるけれど、水色、青、紺、濃藍と深まる空に影はなく、これから眠りに落ちる星々の眠たげなまばたきと明けの明星の輝く瞳が清々しい未明の夜気を貫いて刺さる。雨の気配はない、しかしすっきりと洗われた空だった。澳門は明けの明星を指さし空に円と矢印を描いた。幼い澳門、港の澳門は星々の位置から船の行くべき方角を定め、船長の耳にこっそり耳打ちした。船長が緑色の目を細め幼い澳門の頭を撫でたのを、マカオは昨日のことのように思い出す。そう、まるで昨夜眠る前の出来事のように、私にはあの方がそばにいるように感じられる。セニョール、ポルトガルの気配が。
 甕の中で蓮は花開き、みずみずしい朝露が白い肌の上にとどまる。澳門は花弁を一枚だけもいで朝露を口にした。港からは太陽の昇る前に次々と船が沖へ漕ぎ出した。魚を獲る船らの底を銀色の鱗を持つ大きな魚が悠々と泳いで遊ぶのを、漁師たちは目にし、海の上で囁き合った。大きな魚の鱗は銀色だけれどもその日の昼にかけて張り出した薄曇りの雲のせいで輝かず、灰色、鉛色、深い鈍色に染まって海の波に紛れ、船が大きく揺れるので気づいて覗き込むと大きな魚の鱗が鈍色に光って波を撫でている。昼寝の寝台の上で、澳門はその噂を聞いた。昼食を作ってくれた男が裏口で聞いた噂を話してくれたのだ。
「魚は捕まったのですか?」
 男は首を横に振り、不思議そうに澳門を見た。初めて出会う人と話すかのような顔だった。澳門は急に心細くなりシャツのみぞおちを握り締めた。冷たく硬いものが掌を刺した。男が消え、澳門はまじまじと掌のものを見つめた。銀のロザリオは確かに昔もらったもの。潮風に焼けた手を雨のように銀鎖が滑り落ちて澳門の首に収まった日を覚えている。クルスの中央に輝くのは瑪瑙。薄曇りの天の下、白い瑪瑙はほのかに明るく光を放ち、あら…、と澳門は声を漏らした。薄紫色の羊歯の模様が入っていることに澳門は初めて気づいた。それとも、私の知らないうちに瑪瑙の中で育っていた。そうだ、今朝、蓮の朝露を飲んだから芽が出て…。
 その日から何かが変わり始めた。全てが変わり始めていた。日本の港町が海に沈み始めた、と。ニュースの衛星中継を澳門はテレビで見ていた。雲が厚くなりいつの間に日が落ちたのか分からなかった。七月とは思えない冷たい風が吹いていた。大きな魚の尾鰭がぶつかり、小さな漁船が沈没した。落ちた漁師は同じく帰港しようとしていた別の船に助け出されたが、陸に上がってすぐ病院へ運ばれた。海の水があまりにも冷たく、漁師の心臓は止まっていた。テレビに見入ってしまい仕事に遅れた澳門だが、しかし車を一度港へ立ち寄らせた。冷たい潮風が頬を打った。今朝は天と地の区別があんなにはっきりついていたというのに、今はどうだろう、濃い紫色の空が水平線に落ちると共にくすんでその境界を曖昧にしている。海面に映るマカオの灯も水平線までは届かない。服の下のロザリオを澳門はぐっと握り締めた。水平線が見えない。これではあなたがどこから来るのか分からない。その時足元で波が大きな音を立て澳門は立ちすくんだ。海面に鈍色の鱗が並んでいる。ハッとして身を乗り出す。海面の鱗はどこまでも広がっている。きっとあの海と夜空の溶けあった先まで。そう確信されて澳門は足元から震えた。鈍色の鱗は氷の欠片だった。沖から押し寄せる砕けた氷たちが港に犇めいている。鱗の砕ける音がした。ぱりぱりと。それは氷の砕ける音で、今朝澳門の目を覚まさせた音だった。



 毎日、ニュースの声で目が覚める。澳門は寝台の上でロザリオを握り締め祈りを捧げ、目を閉じて寝台から足を下ろす。ゆっくりと目蓋を開くとぼやけた視界の向こう、白い光が長方形の輪郭をぼかして喋っている。枕元の眼鏡を取り上げると、それが像を結ぶ。各国の海の映像の下を字幕が流れ続けている。最新の沈没ニュース。港から、島から、国まで。昨日まで陸であった地が水底へ沈んだと、既に悲嘆に暮れてアナウンサーが読むことはない。毎朝毎朝新しい名前が字幕で流され、人々は自分の踏んだことのない異国の地の名前をただぼんやりと見つめる。それが一周してポルトガルの名前がないと知ると澳門はようやく金縛りから解かれ動くことができた。感謝を口の中で呟き、水で顔を洗い、寒い夏の朝を迎える。
 この世の春は終わりを迎え、日本を皮切りに始まった世界の沈没は、文字どおり、また荒唐無稽な小説のとおり海に沈むことに始まり、それがすべて。東の海の隅っこの島国がぷくぷくと泡だけ残して海に沈むのも澳門は衛星中継で見守った。今も富士山だけは頭を出して、時々白い煙が立ち上る。
「あれは不死の薬を焼いているのですよ」
 流れる字幕の地名を地図から一つ一つ消しながら嘯く若い男は実は若くもないし多分人間でもなかったはずだ。
 男は日本だった。
 日本という国のはずだった。それが空港で本田菊と名乗り、亡国の主というよりは一観光客といった体で毎日ふらふらと遊んでいる。
「こんなことをしていてよいのですか?」
「何かすべきでしょうかねえ」
「あなたの国が沈んだのです、あなたの身体が…」
「覚えていますか、澳門さん。いつでしたか、ついこの前のことですよ、私の国で迫害されたキリシタンが貴方のもとへ流れ着いたことがありましたね。彼らがこの天主堂の建設に携わり今も地下に眠っていることに、私は今感動しています。喜ばしくさえあります」
 とぼけているのか。わざとなのか。澳門には日本の表情が読めない。階段の下からファサードを見上げる横顔は純朴で嘘偽りのないように思われ、首を振る。うっかりこの横顔を信じかけている。何故? 踏む土をなくした日本が生き延びるためにこの港を占拠する腹積もりでないと、どうして信じられるの。しかし日本は日がな一日ふらふらと遊び歩いては銃や大砲を持ち出す気配がない。昨日はバカラでひどく負けていた。素寒貧になった男の自称は爺で、爺は朝が早いのですよと今朝も澳門が目を覚ますより早く客室を出て茶を淹れている。
「ああ、あの時の投銀が回収できたら」
 負けた翌朝のおきまりの挨拶だった。既に沈んだ国土ではなく、何百年も昔の話を日本は持ち出すのだ。ポルトガル交易をやめると言い出したのは自分の方なのに。鎖国と呼ばれる日本の引き籠もる時代の少し前の話。私の港から何隻ものポルトガル船が出て行った。日本を目指して。燃やされた船の数を私は覚えている。処刑された人々の最後の様を知っている。澳門は黙って自分の器に茶を注いだ。日本は勝手に喋り続ける。
「しかし昨日は昨日です。今日は新しい日。今日の私はきっと勝つでしょう。ところで澳門さんはニュースをご覧になりましたか。流石あなたがたの師でしょうか、中国さんの身体は港一つ一向に沈む気配がない。しかし中東はもういけませんね。砂がそのまま水に置き換わったような風景ですよ。それにあの塩の柱……。幻想的ですが、もう誰も彼もそれを楽しんではいられない。あれを美しいと思う人間は一握りとなってしまいました」
 例えばあなたのカジノで遊ぶ人たち。この世の春の終わりの最後の春を楽しむことができる人たち。銀を持つ人たちです。日本はひとりごとのように呟いて器を手に持ち上げ喉を潤し、新しいお茶を淹れるために立ち上がった。澳門はリモコンを取り上げた。寝室の枕元に置いているものとは違う、大きなテレビが壁にかけられていた。ボタンを押すが何も映らない。見れば隅にある電源の小さな明かりは緑が点っているからチャンネルを間違えたのだろうか。爺さんったら日本のテレビを触るようにして勝手に違う局のボタンを押したのかしら。しかしどのボタンを押しても画面は暗いままだった。衛星中継も、本土の番組も何も映らなかった。奥から、ああっ、と小さな悲鳴が上がる。電波が入らない! 澳門も携帯電話のボタンに触れた。日本が悲鳴を上げたとおり。澳門はリモコンからも携帯電話からも手を離して首を傾け外を見た。今朝もまた薄曇りだ。茶が半分ほど残った器の底で羊歯が芽を吹く。ハッとして立ち上がった。ロザリオが手の中で震える。それとも震えているのは自分の手。薄紫色の羊歯が静かに育っている。澳門は寝室に駆け込むとあたりかまわず抽斗を引っ張り出した。便箋に筆を走らせる。白く厚い封筒は寝台からすぐ手を伸ばせるサイドボードに入れていると、いつもは知っているはずなのにひどく手間取ってしまった。封をした手紙を懐にカーザ庭園までの道を駆けて、駆けて、また水面を見た。薄曇りの朝日を受けて河口に銀色の鱗が並んでいる。
 息切れしながら飛び込んだ庭園の朝露が澳門の裾を濡らす。茉莉花の香が裾をさばくたび足元から立ち上った。緑に埋もれる円筒形のポストの前でマカオは膝をつく。周囲の白い小さな花がいっせいに、りん、と震えた。澳門は手紙とロザリオを握り締め祈りの言葉を口にする。それは長く続いた。波音を聞きたかった。砂色の海を割って港に船の入る際のあの水音、あの波音。セニョール、と途切れそうな声で呼びかけ澳門は手紙を投函する。ポルトガルへ直行する最後の郵便ポスト。ここに手紙を出せば彼は必ず来てくれる。必ず。それが約束。
 帰りの路をとぼとぼと歩く。露店に人は少なく、店も路地もそのものががらんとしていた。声を上げない動揺が確かに広まっていた。テレビが消え、インターネットが寸断され、携帯電話はもちろんのこと時々は机上の電話も通じなくなり、河の向こうに言葉を届けることさえ、また声を聞くことさえ困難になる。まして。ポルトガルからは何の連絡もなかった。
 黒い砂浜に下り、ポルトガルは貝殻を探す。ひとつひとつを耳に当て、はるか西の海からの伝言が届いていないかを確かめる。しかし白い貝殻は冷たく穴からは乾いた砂がこぼれ落ちるばかりだ。ひとこと、ひとことでいい。名前を呼ぶひとことさえあれば、私は…。
「澳門さん」
 振り向くと日本が立っている。木綿のシャツに、裾丈のわずかに合っていないズボンを穿いている。
「澳門さん、朝ごはんができました。戻りましょう」
 足が動かなかった。まだ浜を探し始めたばかりだ。日本はさくさくと砂を踏んで近づき、澳門の手から白い貝殻を取り上げた。耳に近づけ、目を閉じる。澳門は顔を背け、銀の鱗が海に敷き詰められた様を見た。ぱりぱりと音がする、その下からかすかな波音が聞こえる。足はふらふらと凍った波打ち際に向かって歩き出す。銀の鱗を両手で分ければそれはたぷたぷと音をたてて両側に分かれ流れたし海は確かにそこにあった、とても冷たいけれども。
「澳門さん、誰も死んでなどいませんよ」
 日本が耳を貝殻から離し、静かに語りかけた。
「皆、眠っているだけなのです」
 その後時々海に入る者がいて、彼らの誰一人帰らなかった。また死体も揚がらなかった。澳門の許へはこの世の春の終わりの最後の春を楽しむことができる人たちが続々と集まり、澳門の足元は銀で埋まった。相変わらず日本は負け続けており、遊ぶ金を用意してやるべく澳門は新しいカジノ建設に取り掛かる。この世の終わりの最後となれば皆、神の見守る下で心安く遊びたい、という訳で頓挫したままだった修道院風のカジノが近々完成予定。
 澳門はまだ気づいていない。バスに乗った異国の男がどの停留所でも降りることをせずにぐるぐるとマカオの街を回り続けていることを。バスの一番後ろの座席で異国の男は眠り込み、緩やかに波打つ長い髪が額や肩にかかっている。荷物はなく疲れ果てた男はバスの中で安心しきって眠っていた。その時澳門はいつも仕事をするはずのカジノでまるで見知らぬ人間のように扱われ、大きな通りの真ん中で虹色の電飾の光を浴びて呆然としているのだった。






2016.9.25