「武装ガレオン船を、東へ」





 あなたが海を覆い尽くす夜空を見上げて私を思い出すなら、私は港の底に降り積もる砂を掬い上げます。冷たく濡れた砂に手を差し入れて、沈んだ船の灰のため祈りを捧げます。
 どうか一言。
 たった一言。
 私にメッセージを送ってください。どうか私が泣き止むように。私は恐ろしくて悲しくて仕方がない…。

          *

 とぐろを巻く太いロープの上、冷たく分厚いマントを被って眠っていると囁き声が泡のように水底から立ち昇ってなにやら音を立てている。軋む甲板に耳を押し当てて息を止めれば、それは遠く東に置き去りにした港の少年と同じ声で泣いていた。ああ、あの声だ。そう気づくと心が軽くなって甲板の上にべったりと俯せになり全身に震える囁きを受けた。セニョール…。ポルトガル氏…。淋しいです…。泡は船底に弾け、震える声が凪の海で安眠を貪っていた船を軋ませる。テーブルからはカードが滑り落ち、大砲の弾は悪魔が歯を鳴らすようにガタガタと音を立てた。船乗りたちが暗闇の中で目を見開く。起きたぞとは誰も言わない。見張りが唾を飲み込んで首を左右に巡らせる。目を瞑っているのは俺だけだ。甲板に寝そべる男は嗤う。
 触れただけで汗を滲ませる少年の掌を思い出す。自分の手をしっかりと握り締めていたそれが誘われて襟の内側に触れた時、自分は心底慈愛の表情を浮かべていた。それは真の意味で心底であり、ポルトガルに決して企みなどはなかった。いつか触れるだろう、が、とうとう触れた、になった。引き返せない岸に辿り着いた、そこにあるのは諦めではない。栄ある光も、黄金の敷き詰められた野も、そして神秘のヴェールにつつまれた燦然たる存在から降り注ぐ福音も全て、引き返すことのできない汗ばんだ少年の掌にあった。
 いまポルトガルの首には冷たい汗が流れるだけだ。そこに己を護るものは何もない。十字架は自らの手で細いマカオの首にかけてやったのだ。あれは銀だった。中央に埋め込んだ星は黒い真珠だった。己の手に戻ることが果たして二度とあるだろうか。日本への渡航を禁止されて慌てたのはポルトガルだけではない。マカオ自身も、あの背の伸び始めた少年自身もまた恐ろしい打撃を受けている。東洋の端の端であるが、あの花咲く美しい港との交易。それは一世紀も続いていた。百年。たった百年だったか。
 特派大使四名の派遣。インドに置いた政庁を介して伝えることができたのはそれだけだ。夜空を見て自分を思い出してくれという若い頼みに返してやれるものはなにもなかった。返事が届くまでまだしばらくかかるだろう、と思っていたが。
 恨まれているのだろうか。水底の泡は恐ろしい真実を告げる。焼き討ちにされた船。首を斬られ掲げられた船乗りたち。それを東洋の隅の、あんなちっぽけな島国の人間どもがこぞって見ていたということだ。どうして、来てくれなかったのですか。どうして、もっと言葉をかけてくれなかったのでしょう。私はあなたの言葉さえあれば…。
「無理やて、マカオ」
 ポルトガルは重たい掌で甲板を撫でた。お前の手は日本には届かん。焼かれる船を助けるなんて無理な話や。俺が言葉をかけても同じ。もっとぉ頑張れる、て。ないない。そんなことがあってたまるか、とポルトガルは寝返りを打つ。後頭部がごつんと叩いた甲板は一気に声をひそめた。
 自分が行っても船は焼かれただろう。大使の首は落とされただろう。仕方がないのだ。時に運命には逆らいきれない。マカオはまだ若い。自分はよく知っている。マカオもいずれ知るだろう。
 裸の首に触れた。冷たい汗が冷やした下で、どくどくと脈打つものがまだあった。同じ場所に触れた少年の汗ばんだ掌を思い出した。思い出しながら己の首を軽く絞めた。夜空に乳を流したような星の川が横切る。声も変わる前の少年をあの港に連れて行った時、こちらの言葉がまるで理解できない日本だ、似たような音を繋げて天川と言った。それも悪くない名前だと笑ったのは自分だった。隣の少年は顔を真っ赤にしていた。今もその顔を朱く染めているだろうか。怒っているのか。――それとも青ざめているか。
 大きく息をつきながら天の川に手を伸ばす。お前を思うているよ。俺もだ。本当だ。嘘などつくものか。だから行ってくれ。もう一度船を出してくれ。重装備の武装ガレオン船二艘。船乗りは三百人も乗れるだろう。大砲は撃たなくてもよい。撃てるのだと分からせればいい。できるよな、マカオ。俺の頼みは断れないだろう。
「俺、つっかれて…」
 再びごろりと寝返りを打ち、男は甲板の隙間から船底に囁いた。
「甘えられるのお前だけやん…」
 水底の砂は泡を吐くのをぷくりと止めた。船は痙攣を止めて船乗りたちの安堵の息が一斉に漏れた。ポルトガルは甲板の上、重たいマントにくるまって目を開ける。船を照らす星の光に遠い港の姿を思い出そうとする。しかし蘇るのは湿った掌だけである。裸の胸に体温を伝播させる、マカオの汗ばんだ掌だけである。