刹那的ではあるが厳然とした




 北へ向かうイタリアはいつもの弱音を吐かなかった。
 朝が来ればハグをねだる。へらへらと笑い「ドイツー」と緊迫感のない声で呼ぶ。靴紐が結べず転び、昼にはパスタを茹でようとして怒られる。猫を見つけて喜び、蝶を追いかけてはしゃぐ。いつも通りだ。弱音を吐かないこと以外。
 実質、退却戦だった。防戦ラインはじわじわと北へ北へおいやられていた。地の利はこちらにある。しかし、彼らはまた一つの街を手放さなければならなかった。道は険しい。夜営は不気味なほど静かだった。
 足を見せてみろ、と言うとイタリアは抗わなかった。軍靴を脱がせる。靴下にわずかに滲んだ血。炎を押さえたランプの乏しい明かりの下、まめの潰れて赤くなった足が露になる。
「痛いなら、そう言え。お前が倒れたら元も子もない」
「…ごめん……」
「心配だから言っているんだ。全く、お前らしくもない…」
 薬を塗ろうとすると、伸びてきた手が首に絡みつき、邪魔をした。
「こら…」
 軽く頭を叩いてみせる。しかし俯いたイタリアはそのまま自分の顔をドイツの胸に押し付け、いやいやをするように首を振った。片方だけ靴を脱いだ足が、腰にしがみつく。
「イタリア!」
 小さな声で叱責すると、か細く不明瞭な声が、オレダッテドイツガシンパイダヨ、と呟いた。起伏に乏しい声が、ようやく言葉を押し出していた。ドイツは溜息をつく。
「…なら薬を塗らせて、安心させてくれ」
 しかしイタリアは尚も強くしがみつく。
 ドイツは狭いテントの中を眺めた。ランプの位置を見、イタリアに抱きつかれたまま手を伸ばして明かりを消すのは無理だと悟った。
「…イタリア」
 低い声を耳に吹き込む。イタリアの肩が震える。
「少し離れてくれ。明かりを消す」
 イタリアが顔を上げた。いつも笑顔で細められている目が、涙に潤んでドイツを見上げていた。イタリアは頷き、腕と足から力を抜く。ドイツが手を伸ばし明かりを落とすと、そこは音のない闇に落ちた。

          *

「イタリアちゃんは愛してなんぼだぜ?」
 酔いの回ったプロイセンが、テーブルの向こうから挑戦的な視線を投げかけた。
「解るか、ヴェスト」
「イタリアは同盟国だ。協約も結んでいる。俺は…」
「おいおい、ヴェスト、そうじゃねえだろ?」
「…何を言いたいんだ、兄さん」
 二人の間には何本もの空のビール瓶があった。今の問題を話し合うのに、それは適切な状況とは言い難かったが、本来ドイツが一蹴するはずのこの問いに真っ向から取り組んでしまうのも、これの手助けに因った。
「今日も苛々してたじゃねえか。俺がイタリアちゃんを甘やかすのがそんなに気に食わないのか? ヴェスト、お前は考えすぎだ。子供みたいに甘やかして、猫みたいに撫でてやれよ」
「イタリアは子供でも猫でもない」
「イタリアちゃんは凄く可愛いぞ」
 ドイツは眉間の皺を深くする。
「可愛いからという理由で愛するのは、違う」
「違わねえよ。可愛いから愛するし、愛するから可愛くなるんだ」
「…兄さん?」
 視線を鋭くすると、プロイセンは反対に顔に笑みを広げた。
「俺はイタリアちゃんを愛せるぜ?」
 手を差し伸べるような視線だった。ここまで来いと言っているかのようだった。しかし、プロイセンのいる場所とはどこだろう。国が国を愛する。彼らは協約を結び、同盟を組み、共に戦っている、それで十分ではないのか。愛する、とは一体何なのか。
「兄さんが愛について語るとは…」
 ドイツは新たなビールを注ぐ。
「ヴェスト、解らないのか…?」
 プロイセンの手が伸びる。まるで子供にするように、その頭を撫でる。
「つまらない真似はやめてくれ」
「よし、今度ゆっくり話そうぜ」
「兄さん」
「戦争が終わった頃にでも…」
 酩酊と眠気の間でプロイセンの顔が揺れた。プロイセンがわずかに眉間に皺を寄せ笑う姿は、どこかで見たことがあるような気がした。空気が重くなる。ドイツは手を動かすのも億劫になる。ゼラチンのような弾力のある空気の向こうから、くぐもったプロイセンの言葉が聞こえる。
 全く、我が弟ながら、世話の焼ける奴だぜ!





タイトルはネットの海を漂っている時に。