わたしは、うれしいだけ





 ビルが囲む湾は砂の色をした海が碧水とまじりあい、雲の隙間から差す真新しい白い光に白金色の光を反射する。マカオは自分の隣でまだ眠りから目覚めない男の癖のある髪を撫でていた。彼は自分のこの黒髪を美しいとは言うけれども羨ましいとは言わない。溶け合い一つになることのない身体は今朝も別々の身体で目覚めた。起きる時間さえ違う。
 本当はもっと寝ていてもよかったのだけれど、とマカオは立ち上がり薄青い窓から眼下の我が街を見下ろした。足に纏わりついたシーツはポルトガルの身体の上を滑って床に落ちる。マカオは自分が素裸ではないことに気づく。袖口をかぐと海の匂いがする。男の肌に染みついた香りは完全に自分のものにはならないが一晩の衣には移るのだ。
 飛行機がビルをその腹で掠めるように低く低く飛んでゆく。最近はこうして飛行機で来るようになったのに、それでもマカオが見つめてしまうのは海だ。当の本人が背にいるのに、それでもマカオの両眼は砂の色から鮮やかな碧へと移り変わる海に注がれた。今にも帆船がやってくるのではないでしょうか。私を迎えに。
 マカオ、と眠そうな声が呼んだ。返事をしベッドへ戻る。枕に顔を埋めたポルトガルがシーツの海に手を彷徨わせる。それはマカオの膝に辿り着くと薄い着物ごと太腿を鷲掴みにした。どうなさったんですか、セニョール。マカオは小さく微笑して尋ねた。
「どこいっとったん」
「御側にいましたよ」
「嘘やん」
 ベッドが冷めていると呟いてポルトガルはマカオの腰を両腕で抱き寄せた。枕はもう必要なかった。彼は薄い着物もはだけて露わになった白い太腿に頬を擦りつければよかった。
「朝食を…」
 ポルトガルはたっぷり頬を擦りつけながら首を振る。
「ではワインを」
「ええな」
 マカオは腕を伸ばして受話器を掴んだ。電話がフロントに繋がるほんの短い時間、受話器から聞こえてくる無音は波の底で低く囁く砂の音に聞こえた。マカオの港にはよく砂が積もった。彼は幼い頃、それを両手に掬ってもう一度広い海へ還そうとしたことを思い出した。それでも集まってくる砂は、この男が自分の港を目指している遠い証拠なのだと信じたことも。彼の船が海の波を揺らすのだ。私の港へ、私のもとへ。だからこの足下には砂が積もるのだ。
 ワインが届くまで、ポルトガルはまたまどろんでしまう。マカオは彼の首を枕に載せ一人でワインをあける。口元から零れ出した赤い液体が薄い着物を濡らす。ポルトガルの眠る傍らで、マカオは静かに泣いている。