素数と梯子があれば生きていける人




 昼食の片付けをしながら後ろを振り返るとコーヒーを片手にドイツが新聞を読んでいて、また眉間に皺を寄せている。厳しいニュースが載っているのは彼ら国にとっては常なることであって、彼がその生真面目さでひとつひとつに眉間の皺を寄せているにしろ、コーヒーを片手にしてくれる表情ではないな、と思ったからイタリアは布巾で手早く濡れた手を拭くとソファに腰掛けたドイツの背後に回りその両手でドイツの両目を塞いだ。
「だーれだ?」
「…ふざけるな」
「ふざけたっていいだろ。ここ、俺んちだし」
「関係ない。離せ。見えん」
 不機嫌は加速する。イタリアはそれでもドイツの額を手のひらでぺちぺちと叩きながら指先で眉間に触れた。
「ねえ、ドイツ」
 ドイツはイタリアの手を払い、新聞に目を戻しながら応える。
「好きなもの、教えて」
「何の話だ」
「何でもの話ー」
 金髪の後頭部に顔を押し付けふごーとくぐもった声を発しながらイタリアは、ねえ教えてと重ねる。
「あれでしょー、ドイツが好きなもの。ビールと、ヴルストと、ジャガイモぐっちゃぐちゃに潰したやつと、綺麗な部屋と、真面目な男と、拷問と、エッチ」
「その誤解を生む並びはやめろ」
「チョイスは否定しないんだ?」
「ビールに罪があるか?」
「ないであります」
 イタリアはドイツから離れると、自分のためのコーヒーを淹れ、おかわりは?と呼びかける。ドイツが軽くカップを上げる。そこにイタリアは新しいコーヒーを注ぐ。
 窓辺の椅子に腰を下ろし、イタリアは外を眺めた。花の咲く庭の向こうに軽く町を見下ろすような景観だ。高台の、白い壁の家。誰も、誰が住んでいるかなんて気にしたことのない、不思議な家。今も、休日の二国がコーヒーを飲んでいるなど誰も、首相でさえ知りはしない。
「具体的なデータと、対位法に則った音楽と、あとゲーテ?」
 イタリアは独り言のように続ける。
「ねえ、ドイツ……俺と結婚しない?」
 あまりに静かだった。
 間を置いて振り返るとドイツは眉間に皺こそ寄せていなかったものの、集中しすぎてひどく空ろな目をこちらに向けていた。新しいコーヒーの注がれたカップはかろうじてテーブルの上で、ドイツの手から滑り落ち砕け散るのを免れていた。
 イタリアはそのひどく思いつめたようなドイツと正面から目を合わせ、ゆったりとした声で言った。
「俺、そんなに真面目じゃないし、痛いのやだし、SMプレイも多分出来ないけどさ、でも俺たち男同士だから無理にセックスすることないし、あ、でもしてもいいけどドイツなら。とにかくね、ドイツが好きなのみたいに実用的じゃないけどさ、高いところの物を肩車して取ってあげたり出来るよ、一緒にいたら。梯子いらずだよ。あと俺、歌と料理うまいよ。あと、俺の身体、あたたかいよ。お前にコーヒー淹れてあげる。疲れた時は、今みたいに」
 正午をすぎた明るい光が窓から差し、イタリアの輪郭を飽和させていた。ドイツは屋内の影の中からその陽光に照らされて青く澄んだ瞳をわずかに細めた。睫毛の作り出した影がようやく目に表情を生み、ドイツがひどく戸惑いながら言葉を探しているのが分かった。
「……結婚は飛躍した論理だとしても」
 ドイツは掠れかけた声を咳払いで誤魔化し、
「コーヒーをもう一杯」
「うん。淹れてあげる」
 しかしテーブルの上のカップにはまだ半分以上、ぬるいコーヒーが残ったままだった。イタリアは影の中に手を伸ばし、カップを手にとって鼻先に近づけた。胸までコーヒーの匂いを吸い込むと、小さく喉を鳴らしそれを飲み干す。
「間接キッス、いただき」
 キッチンに戻り熱いコーヒーに砂糖をたっぷり入れる。
 ドイツはもう新聞を読んでいなかった。耳や頬がわずかに紅潮している。
 手渡されたコーヒーを一口飲み、ドイツは反射的に
「甘いな」
 と言った。
 うん、とイタリアはうなずく。
「キス味だから」
 熱いコーヒーが音を立てて飲み下された。





できてない。