fall in fall先程まで滝の音が聞こえていたはずだ。森は深いが、静かで、遠くの音まで、まるですぐ側にあるかのように聞こえてくる。人工的な明かりを落とし、暗闇で耳を澄ませば、確かに聞こえてくるはずだった。 「月明かりがロマンチックなのかな? 分からないや。誰が覗くとも分からないし。君のあの熊さ。あいつはどこに行ったんだい?」 「さあ…どこだろう」 カナダはぼんやりと答えた。アメリカの動く気配がする。彼は部屋の中を忙しなく往復し、結局ロマンチックというものを諦めたらしくカーテンを閉ざした。かすかな月明かりも消える。森の気配が遠ざかる。滝の音も聞こえない。 「そこのランプ点けてくれよ」 「…どこだい?」 「そこだよ。君のすぐ隣。サイドボードの上にあるじゃないか」 賑やかな気配が近づいてくる。体温が覆い被さり、驚いていると燐の匂いがして、見慣れたような手がマッチを握っている。一瞬、自分の手かと思うが、そうではない。 ベッドの反対側に膝を乗せたアメリかが、背中からのしかかるようにして手を伸ばし、ランプに明かりを灯す。 「君はいつもぼんやりしてるな」 「…君はいつも賑やかだね」 すると視界がぐるりと九十度回転する。暗い天井が目に入る。覆い被さるようにアメリカが見下ろす。カナダをベッドの上に引き倒したらしいアメリカは、唇の片側だけを持ち上げ、笑う。 「まさか。今夜は特別にはしゃいでるよ」 森の奥でまどろんでいた頃を思い出す。あの頃、カナダの側には誰もいなかった。差し伸べられたフランスの手。イギリスの手。アメリカの顔をまだ知らなかった、あの頃。 白熊が自分の腕から離れ、カナダは大きな木の根本にまどろんだ。隆起した根が作り上げた小さな窪み、落ち葉のクッションの上、小さな身体を横たえ、樹木の湿った爽やかな匂いや、落ち葉や土の香ばしい実りの匂いに包まれ、遠くに滝の音を聞いた。あれこそが、自分とアメリカの境界になると、まだ知らない。滝は世界の果てだった。 アメリカが暇つぶしにロッジを作ったのが、その側であることは偶然だったかもしれないが、国境という存在は彼らであれば意識せざるを得ないものだったし、特にここ一体は二人にとって境界が曖昧で、幼い日のように居心地が良かった。 「冬になったら、もう外には出たくないからね。クリスマス過ぎたら、もう遊びになんか出ないんだぞ。だから君は遊びに来るべきだよ。僕が新しく作ったロッジに」 一方的な電話に誘われ、カナダは懐かしい森に赴く。その中に真新しいロッジが建っていて、それを自慢げに、誇らしげに佇んでいるアメリカが自分を見ているのが、カナダは不思議な気がした。 二人は外に椅子とテーブルを出し、遅い昼食を摂った。それが済むと、昼寝をした。 遠くに滝の音が聞こえた。森の匂いの代わりに、隣で眠るアメリカの服の匂いがした。夢だ。そう、夢を見た。 昼過ぎの光が照らす下で、確かに滝の音は聞こえていたのに。カナダは思い出す。世界の果ての音を聞くたびに見た夢の切れ端。いつか世界の果てに辿り着いたら、何か素敵なものが待っていると思っていた。まだ知らぬ愛を知り、いつか自分は誰かを愛するのだと夢見ていた。 夢の中でアメリカは泣いていた。カナダの頬の上に涙を落としては優しくするからと繰り返し、キスを降らせ、抱きしめた。それがカナダの見た夢だった。 「…どうしたんだい?」 カナダは小さく首を振った。 痛かった? もうそんなことはないだろう? アメリカは囁きながらカナダの身体に指を這わせる。二人の身体の繋がったそこへ手を伸ばし、くすくすと笑う。 「だって、君のここ、溶けそうだよ?」 「…そ、そんな、恥ずかしいこと…」 「どうして。本当のことさ。すごく気持ち良いのに」 アメリカの囁く言葉に、身体の奥底が揺れる。アメリカを包み込んだ部分が震えて、新たな熱を生み出す。アメリカのそれの形が分かる。自分の中に入っている。そう実感すると、またじわじわと涙がこみ上げた。 「あたたかい」 目の側にキスが落とされる。潤んだ視界の中でアメリカが笑っている。 「熱いくらいだ。カナダ、今、何考えてる?」 「え……」 「しいっ。言わなくてもいい。俺には分かるんだぞ。ヒーローだからじゃない。今の俺には分かるんだ。ああ、カナダ、気持ち良いってのは本当だぞ? 君は?」 「僕…は……」 唇はわなないた。上手く言葉を紡ぐことができなかった。その代わりにアメリカが優しくキスをし、子供のように何度も何度もくりかえし、涙の止まらないカナダをあやした。 「好きだよ」 そう囁いてアメリカはゆっくりと動く。身体をすり合わせる。触れ合い、すれ合う二人の身体のどこもかしこもが、互いの熱を溶かし、更に高い熱へと引き上げる。カナダは声を殺そうとするが、漏れる息が甘く響くそれを隠し切れない。アメリカは舌でぺろりとカナダの唇を舐め、声を出すように促す。 「だって…」 カナダは震える声で言う。 「お、お、男の声だ」 「君の声だよ。聞きたいんだ」 恥ずかしいと首を振ると、じゃあ、名前を呼んで、とねだられた。 「…アメリカ」 「カナダ」 アメリカが呼び返す。その名は滅多に呼ばれない名前だ。忘れられやすく、そしてその見た目から間違われやすい。自分を見て、真っ直ぐ、間違えず、その名を呼ぶ者は少ない。 「カナダ」 「……僕たちは」 「うん?」 「間違えないんだね」 「当然だろ」 カナダはようやくアメリカに向かって腕を伸ばした。少し無駄な肉のつき始めたアメリカの背中に手をまわし、深く息を吐く。 「…アメリカ」 「何だい、カナダ」 真っ直ぐ見つめる瞳に、カナダは軽く目を伏せた。腕に軽く力を込め、抱き締める。太腿を摺り寄せると、アメリカが少し驚いて、それから優しく微笑んだ。 「もっと抱きつきなよ」 額を摺り寄せ、目の前で微笑んで、囁く。 「足を、ほら」 アメリカが動く。擦られるのが分かる。神経がそこから発火して、カナダの内側に火花を散らせる。その熱が伝わったかのように、アメリカの表情も変わる。 動きが乱暴になる。カナダは口から悲鳴のようなものを途切れ途切れに漏らしながら、しかしアメリカを止める術を知らず、その背中に闇雲に爪を立てる。足が揺れる。思惟とはまるで関係なしに、爪先が反る。 アメリカも小さく声を漏らしているのを、カナダは聞いた。息を吐く際の、その低い声は、いつも余裕ぶり、能天気で、実際底抜けの明るさを持った彼の口から聞くことは滅多になかった。 一度は幼い頃。間に合わないと知りつつ、イギリスの乗った船を追いかけて海岸へ走った時。 一度は雨の中。イギリスに歯向かう為、銃をその手に掴んだ時。 アメリカは、共に、とカナダに手を伸ばした。カナダはその手を取らなかった。アメリカは怒り、カナダを殴ろうとした。逆にアメリカを殴ったのはカナダだった。 「アメリカ…」 「……っ」 「アメリカ、アメリカ…」 カナダはアメリカの背中を撫でた。アメリカが息を吐く。カナダは何度も何度もアメリカの背中を撫でた。いなされた馬のように、アメリカの呼吸が穏やかになる。アメリカの視線がカナダを捉える。カナダはアメリカの頬に手を添え、キスをした。 「…好きだよ」 震える声でカナダは言った。 「いつでも、君のことが、好きだったんだ」 青い目が一瞬張り詰め、瞬きで解ける。アメリカの口が開く。 「…ずっと?」 「ずっと。いつでも」 「あの時も?」 「あの時も」 「本当に」 カナダは頷いた。アメリカが熱いと言った部分が、自分の心と同じように熱を持っているのが分かった。 「…本当に?」 アメリカが畳み掛ける。カナダはわずかに瞼を開き、アメリカを見上げた。 「僕は嘘を吐かないよ。そんなに…大胆じゃない」 「本当のことを言う度胸も、ないくせに」 「…君は、意地悪だ」 「君になら、カナダ、君にだったら、どんな本音も言えるのさ」 そしてカナダの耳元で、もう一度言ってくれ、と呟いた。 カナダは枕元の明かりに照らされたアメリカの耳を見た。そこまで自分にそっくりだと思った。些細な部分も、二人はとても似ていた。しかし、カナダはキスをした。その耳に。それはカナダにとって唯一のものだった。この世に二つとない、唯一の、一人の、アメリカだった。 「アメリカ…、好きだよ」 足をアメリカの腰に絡ませ、カナダは囁いた。 「ずっと好きだった。君が、好きなんだ」 身体の内部も、自分の中に受け入れたアメリカのために震え、誘い、絡みついた。 まだ言って、と囁き、アメリカは動き出す。 「ア…アメリカ……」 「うん?」 「…好き……」 快楽なのだと、はっきり分かった。快楽で、悦楽だった。身体の芯からとろけるような感覚の奔流だった。好きだ。好きな相手と抱きあっている。こんなにも感じる。溶けそうな熱。繰り返し呼び続ける名前。 「カナダ」 名前を呼ばれ、視線を合わせる。 「好きだぞ」 泣きそうな顔でアメリカは言った。 「好きだぞ」 泣きそうな顔で繰り返した。 「幸せだぞ」 目を細めて笑うと、カナダの頬に涙が落ちた。 「I love you !」 僕もだよ、とカナダは囁く。囁き声だが、アメリカには聞こえる。 僕もアメリカが好きだよ。 I love you, too ! 目が覚めた。いつも目覚める時間ではなかった。少し早かった。カーテンの向こうは静かで、日の気配もわずかにしかしなかった。朝霧がロッジを包んでいる気配がした。夜明けの冷たく湿った匂いと、対照的なぬくもりが、すぐ頬にあった。アメリカの寝息が頬に当たっているのだった。 アメリカ、とカナダは囁いた。 「僕……」 囁きかけて、カナダは、自分そっくりのアメリカの顔に見とれた。自分そっくりだから見とれたのではなかった。やはりそれが唯一のものであるという、静かな感動がカナダを満たしていた。カナダはアメリカの薄い瞼や、まじまじと見ることのない睫毛や、眼鏡をかけていない鼻筋を見つめた。 唇が、ふ、とほどけた。 「僕、の続きは何だい?」 「え?」 驚いている間に、カナダは抱き締められる。しいっ、と声がした。 「言わなくてもいい。俺には分かるからね」 「…本当に?」 「本当さ。分かるだろ?」 触れ合わせた胸から強く、そして速く打つ心臓の鼓動が聞こえた。 「うん」 その一言を言うのにカナダはたっぷり時間をかけた。喜びや、夢や、涙を一つにまとめて言葉にするのに、たっぷりと時間をかけた。アメリカは彼らしくない寛容さでじっくりとそれを待ち、うなずいたカナダを強く抱き締めた。 遠くで滝の音がする。二人の国境は曖昧らしい。 |