alcoholic rain




 眠るには少々うるさい程の雨が降る。街を叩く雨音を聞くともなし聞いていればその内眠
るかと思ったのも安い勘定だったらしく、どうだ、隣のアパートのトタンの庇を叩く音がう
るさくて眠れやしねえ。別に明日の仕事に支障がある訳じゃない。それどころか休みという
事実なのだけれど、安眠妨害は許せねえ。いよいよ目が覚めてくると、手が勝手に酒に伸び
た。安眠を約束する錠剤もいくつか冷蔵庫の奥に眠らせてあったが、仕舞っておいたボトル
の封を自ら開けたということは、もう眠る気も失せている、という訳で一人寂しくはないが、
面白くもない酒盛りが始まったという訳である。現在木曜日、午前一時を少し前だ畜生。
 味よりも、一気に流し込んだ液体の、ずん、と身体や頭の芯に与える衝撃を追って、スト
レートであおっていたら、いつの間にかビンの底が見えた。飲み初めがつまらなかったのだ
から、味わいもせず飲み終えたところでいい気分になっているはずがない。やはり寝るしか
なかったのだ。振り返ると、すっかり冷えたベッドがつんと横を向いていた。どうだろうね、
一度背を向けた恋人はもうその手に戻らないってのは教訓としてありきたりすぎやしないか。
 だからベッドを見つめて不機嫌面でいたんだ。顔に出してるんだよ。俺は不機嫌です。不
機嫌だ。不機嫌なんだから、背後のそのうるさいノックを止めないか!
「鍵は開いてるぞ、009」
「何だ、分かってたんじゃないか」
 ネオンサインの明かりさえ届かないボロアパートの四階までやって来る好き者が、あいつ
以外にいるとは事実意外ではあるが、よりにもよって、という奴だ。
「こんばんわ、お邪魔します」
「こんな夜中に何しに来た。俺を殺しに来たか?」
「どうして知ってるの?」
 随分明るい口調で素っ気なく言ってくれる。これはもしや本気かもしれん。
 振り向くと、ジョーがわざと眉間に皺を寄せ、唇を曲げてみせ、右手の人差し指で
「バン!」と撃った。
 それで殺し屋のつもりか。
 どうやらこの殺し屋も少し飲んでいるらしく、微かにアルコールの匂いがした。だが、や
はり自分と同じく陽気なようには見えない。どこか憂鬱で重たい。お前はただでさえ哀愁漂
う顔してるのに、それで酒の匂いを引きずってちゃ、重たすぎて敵わんな。
 するとジョーも自らの重みに耐え兼ねるように、入り口のドアにもたれ掛かった。緩みか
けた蝶番が小さく軋んだ。
 明日が休みということを見越してか、どうやら今夜は底の底まで落ち込む酒盛りを天は命
じているらしい。しかしそんなに酒の買い置きなどしていない。するとジョーの傍らで紙袋
が傾ぎ、中から缶ビールが転がり出た。いやはや準備万端とは、天の意志か、こいつの勘か
知らないが恐れ入る。
 扉を背に座り込んだままのジョーに一本開け、自分も何本かを拝借してテーブルの上に並
べた。
「で? 用は何だ、009」
「もう…済んだ」
「酒の差し入れか」
「機嫌悪いね」
 言われるほどでもないぜ。雨の降って眠れない夜は、いつもこんなもんだ。
「僕じゃなかったらよかった?」
 何?
 何を言ってやがる、こいつは。
「002に来てほしかった?」
 前言撤回だ。俺は今、最高に機嫌が悪い。悪くなった。
「物凄く下らないことを、わざわざ、ドイツくんだりまで言いに来たのか」
「昨日からこの街にはいるよ」
 黙ってビールを飲み干すと、背後からジョーの声だけが語りかける。
「一晩、悩んで、もし突然訪れて、そこに002がいたら嫌だな、と思って」
 途切れ途切れに言葉を紡ぐ心細げな声は、こいつ、こんな性格だったろうか。
 と言うか、何だって? 002が何だと?
「いたらいたでいいや、って思って、来たんだ」
「あのな、さっきからお前が話すうえで前提としていることに考えを巡らせると、俺は少々
戸惑うんだが」
「僕は、君と002の前提の方が応えるよ」
「酔ってるだろう。何か、悪酔いして勘違いしてるな?」
「誤魔化さないでくれよ」
 この下らないB級映画みたいな遣り取りは何だ。勘弁してくれ。
 状況が煮詰まるには早すぎる。この芝居の脚本を書いたのは誰だ。009、お前、これか
ら仕事に就くにしても脚本家だけは向いていないらしいぞ。
 しかしそんな忠告をしてやるにも億劫だ。今夜の酒は口を重くする。自分もやっとで言う
べき一言を口から押し出した。
「お前、フランソワーズの所に帰れ」
「来たばっかりなのに、酷い」
 初めてジョーが笑った。声から察するに、僅かに眉間に皺を寄せた、いつもの困ったよう
な笑い方だ。
「ごめん、何だか、分からなくて」
 ずるずると壁にそって立ち上がる様子が聞こえてくる。
「また002と連絡が取れなくなって、ふと思いついて、ドイツまで来てた。何となく、君
ら二人でいるんじゃないかって気がして」
 馬鹿馬鹿しい、と小声で呟くのが聞こえた。
 部屋に沈黙が降りる。雨音さえ遠ざかる。
 ようやく深いところから浮上したように、ジョーが溜め息をついた。
「002に伝言」
「最後通牒なら自分で突き付けろ」
「違うよ、メンテの事。たまには受けろって言っておいてよ。死ぬよ、って」
「あいつ、自分の事、不死身のサイボーグとか言ってやがったからなあ」
「言ってたね…」
 また、ジョーの纏っていた空気が少しだけ緩んだ。
「まあ、そういう所」
「好きだがな」
「うん」
 ドアの隙間から振り向き、ビールは慰謝料代わり、とジョーは言った。

 雨の降る憂鬱な夜は、今みたいに結局ヤマもなけりゃあ、オチもつかずに更けた訳だ。俺
はビールを冷蔵庫に突っ込み、ベランダのカーテンも閉めて、ベッドに転がった。頭がすっ
かり疲れていた。眠気が身体を上から押さえ付けるように降ってきた。夢を見るだろう。多
分、後味の悪い夢だ。しかし今雨の中を濡れて帰るジョー程に悪くはあるまいさ。
 いいや、どっちもどっちだ。俺もあいつも今夜最悪の夢を見て、翌朝さっぱり忘れられれ
ばいいんだが、きっとそうはいかねえだろう。この世が甘くないことくらい四十年以上も前
から知っている。
 最後に問題だ。おりしもそこへベランダの窓をノックする音が聞こえるんだが、これは夢
か。それとも起きて開けた方がいいのか。そして開けたとして、俺はやって来た奴をキスで
迎えるべきか、それとも蹴飛ばした方がいいのか。
 今、悩んでいるこの時が永遠に続くような気がして、俺は目眩がした。



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