Don’t tell a lie昼過ぎに降り出した雨が、確か居間で今夜のロードショーを観ていたフランソワーズにお やすみを言ったときはまだ強く降っていたはずだけれども、夜中に起き出してみると辺りは 静かで、窓の外がぼんやりと明るかった。 ジョーはしばらくベッドの中から窓の外を見上げていた。下から見上げる窓が映すのは空 ばかりで、右下の桟に下弦の月がかかっている。結構な時間だ。ジョーは頭の下で腕を組み、 じっと月を眺めていたがやがてため息をついてベッドから起き出した。独り言が勝手にこぼ れ出す。 「だって、こうするより、仕様がないだろう?」 窓の鍵は開いている。ジョーはそれをそっと手で押し、わずかな隙間を開けた。そうやっ て窓の隙間から雨雲の去り行く空を見ていたが、不意にその顔が歪む。彼はずるずると壁に もたれ、窓の下に腰を下ろした。膝を抱え丸くなる。爪先の手前に月光が落ちる。彼はそれ を避けるように体を縮ませた。 「イワン、起きてる?」 『……また起きたのかい? 癖になってきたね』 「うるさいな」 ジョーは眉をひそめ、イワンの眠る階下を睨みつけた。 『そんなに怖い顔をするなよ。話し相手にくらいなるから』 「そうじゃない。探してほしいものがあるんだ」 『何? 随分切羽詰まってきたみたいだけど』 「違うよ、君の期待するものを探してほしいと頼むんじゃないんだ。酒を」 ジョーは手にグラスをもつフリをして振ってみせた。 「飲んでもバレなさそうな酒は、この家にある?」 『ロンドンのアカデミー俳優も駄目にした万能薬を、君がお望み?』 「お気に召した? もしかしたら誰かの名前を呼ぶよりウケがよかったかな」 『そんな風に言うことはないよ。信じられないかもしれないけれど、僕は君が好き』 「…何だって?」 ジョーは苦笑すると、ふらりと立ち上がった。 『そのまま降りておいで。リビングにあるサイドボードの…端の開き扉に、コズミ博士が忘 れていったワインがあるから』 「…ありがとう」 折角持ってきたグラスも大して使わないまま、今はもう口づけにジョーは飲んでいた。面 白くないから、という理由で酒を飲んだのは初めてだ。実に不味い。コズミ博士が老境の友 人と共に楽しもうと用意した年代物の白ワインは早々にジョーを酔いの世界に引きずり込ん だが、変に醒めたどこかが決してそれを気持ちの良いものにしてくれないのだった。 「こんなの…女々しくてやだなあ」 呟くが、イワンは返事を返してこない。それは独り言となって、ジョーの足元に積もった。 キイ、と小さな、ほんの小さな木の軋む音。いつものジョーならハッとして窓を見上げた ろうが、この晩だけはじっと手元のビンを見つめていた。残りグラス一杯。飲むべきか飲ま ざるべきかそれが問題じゃ、仲間の真似をして呟いてみる。眉間に皺を寄せ、ビンを持った 手をグイと前に突き出す。そのビンはきらきらと月光を反射したが、やおらそれが陰った。 「飲むべきだろうな、再開の祝杯として、俺が」 突然に降ってきた声にジョーは顔を上げた。久しく見なかった顔が、窓から覗いている。 ジョーは途端に不機嫌になって悪態をついた。 「帰れよ。でないと窓に挟んでやるからな」 「穏やかじゃないな。どうしたんだ、そんなに酔って」 「黙れよ……、ムカつく」 「ったく、久しぶりに会った仲間にその態度はないだろ」 窓枠に足をかけていた長身が、くるりと回転するように床に降り立った。長い髪のさらさ らとした影が床に落ちる。高い鼻梁など、ジョーは影と実物とを見比べて言った。 「すごいすごい、良くできてるよ?」 「ああ? 何のことだ」 「毎度毎度君の変身には恐れ入るよ。すごいすごい、すごいのは分かってるから、こんなこ とで僕をからかうのはやめてくれないか。とても寛容な気分じゃないんだ」 「おい、俺のことを007だと思ってるのか?」 「しらばっくれるなよな。本気で…怒るよ」 「本気で怒るのはこっちだ。目を覚ませ、009」 ジョーは顔をしかめ、奥歯のスイッチを押した。その瞬間、加速に耐え切れなかった右手 のビンが粉々に砕け散った。その砕け散るのさえスローモーに見える。光の砂が降り注ぐよ うだった。 「危ねえ真似をするなよ!」 不意に耳元で声がして、腕が掴まれる。加速の空間の中において、その相手の姿は通常の 空間と変わらないままに存在していた。 ジョーが加速装置を解くと、相手も通常の空間に戻ってきた。 「どうだ? 007には加速装置はついてないからな、ここまで真似はできないぜ」 ジョーは黙ってジェットの顔を見つめていたが、不意にその胸を拳で叩いて 「帰れよ」 ポツリと言った。 「おい、009……」 「僕だって…男なんだからな。こんなことで煩わされるなんて、嫌なんだよ、自分が」 滅裂な言葉とともに尚も相手の胸を叩く。 「ジェットを待って、窓の鍵を開けておくのも、夜中に何度も目を覚ますのも、そのまま夜 明けまで窓の外を眺めて待つのも、窓を開けて君のことを待つなんか、そんな、そんななあ!」 「いいよ」 広い手が拳作った両手を優しく止めた。 「そんなに待たせたのか。悪かったな」 「そうじゃない」 「009」 「違うんだ!」 さっきからジョーの頬を大粒の涙が伝っていた。彼はそれを拭う術を知らず、涙をこぼし ながら、違うんだ、と何度も呟いた。 「僕が…悪いんだ」 ジェットは口を閉じた。尚も叩こうと動く手に体を揺さぶられながら、沈黙した。 ジョーの口から小さな嗚咽がもれた。堪えるように、彼は小さく引きつるような息をもら した。涙が床に落ちて、いくつもの染みを作った。 「なあ…」 ジェットはようやく一言しぼりだした。 「あのな」 しかしそれ以上の言葉が続かない。 「あのな……」 そして腕を掴んだままジョーの体を抱き寄せる。途端にジョーは激しく抵抗した。首を振 り、足を踏ん張る。ジェットは無理やりジョーの背中に手を回すと、自分の胸に抱き込んだ。 「馬鹿!」 ジョーは絶え絶えの声で叫んだ。 「何をやってるか分かってるのか、馬鹿!」 「分かってるさ」 そしてジョーを強く抱き締めると、顔を背けようとする、その耳に囁いた。 「お前に会いにきたんだ」 「馬鹿!」 「お前に会うため、遅い飛行機だけど、乗り込んで、飛行場から、一直線に飛んできた」 「言うなよ、馬鹿!」 「ジョー」 「ばかあ!」 「会いたかった」 ジョーは唇を噛んでその言葉に耐えた。 |