チケッット・オブ・マイ・ライフ




 墓石は海を見つめている。ここから吹く風に乗れば、遠く離れた彼の故郷へその魂を運ぶのかもしれない。北へ、北へ。
 夜の海は激しく波打っていた。昨日から天気が崩れ、雨はさっき止んだばかりだった。夕陽を見ることなく、空は暗い紺色に包まれた。月は出ていない。雨に洗われ澄んだ空気を、銀色の星の光が射すように降る。雨の続きのようだとジョーは思った。 ギルモア博士は父だった。そう言ってしまうのは楽天的ではないかと言う声もあるだろう。君らの肉体を改造し戦争に駆り立てようとした一味なんだぞ。
「そして僕らと一緒に逃げたさ」
 ジョーは呟いた。
 あれも海岸でのことだった。冷たい波飛沫。冷たい海風。冷たい潮の香り。
 皮膚が震える。肌寒さを知覚すれば機械の身体は自動で体温を調節する。それでもジョーは震えた。あの日の記憶は鮮やかだった。人間としての人生を失ったあの日。生身の肉体を失い、ぬくもりを失い、自由に生きる権利も失って、しかしジョーはそこで得た。人間らしいもの全てを失いながら、今まで人間だった自分が得られなかったものを得た。家族だ。だから…。
 やはりギルモアは父だったのだと思う。まして死んだ人間だ。これ以上いじめることもない。彼も最後まで十字架を背負い逝ったのだ。ギルモアの後半生はジョーたちの為にあった。全て、全てがだ。研究も、開発も、財産も、人生の残り時間最後の一秒まで、彼は自分たちが生み出した九人のサイボーグ戦士の、誰より力強く強靱な肉体の、小さな部品一つの不良で死に至る彼の九人の子供たちのために費やされた。
 お父さん、と呼ぶことは一度もなかったけれども。お父さんと呼びたいと思ったこともなかったのだけれど、やはりあなたは父でした。ジョーは墓石の前で手を合わせ、立ち上がった。
「おせーよ」
 離れたところでバイクにもたれかかっていたジェットが文句を言った。
「いいじゃないか。何でも言うこときくって言っただろ」
「早く乗れよ」
 ジョーはジェットの後ろに座り、腰に腕を回した。
「いつでも時間あっただろ」
 風の中でジェットが話しかける。声は脳内の通信機に届くのと、高性能の耳に届くのと二重だが、彼らの脳はすぐにそれを処理する。いつものジェットの声。
 ジョーも声に出して答える。
「昼はフランソワーズのもてなしを受けてたんだ」
「デートだろ」
「誕生日だからって映画を奢ってくれたんだ」
「何観たんだ」
「ヒューマンドラマ」
「ベッドシーンは」
「ある」
「デートだろ」
「フランス映画だ。それに彼女フランス人だよ」
 真昼の情事なんてなかったんだからな、と頭の中でぼやくとジェットの背中が震えた。笑っている。
「夕方からは君たちが開いてくれたパーティーじゃないか」
「誕生日だからな」
 もらったプレゼントは七つ。フランソワーズの分は午後の映画だったから。
 子供でもあるまいし、だが彼らは大袈裟なほどの祝福をする。大きなリボンで飾り、ラッピングは派手に。そして意外性をもって。
「君のが一番意外だったよ」
 ふん、とジェットは鼻を鳴らした。彼がくれたのはチケットだった。一日何でも言うことをきく券。子供ではあるまいし。だが。
「嬉しかったよ」
 そう素直に囁いて背中に頬を押しつけると、まーな、とジェットが小さく答え、笑った。
 懐かしのギルモア邸は、どの部屋の窓も明かりに輝いている。いや、一つ消えたようだ。
「グレートだよ」
 ジョーは後ろから覗き込み、言った。
「だろうな」
 バイクは速度を落として敷地内に入る。
「どこに行ってたの!」
 ドアを開けたフランソワーズが憤慨したが二人はどこ吹く風だ。グレートは案の定潰れてしまったらしい。アル中ばかりは治らない業病だ。ジョーのためのお酒だったのに、とフランソワーズ、そして料理を準備した張々胡はぷりぷりしたがジョー本人はグレートが楽しく飲んでくれるならそれで構わない。時々ふらっと音信不通になるくせに、この日は必ず駆けつけてくれる。彼もまた家族だ。
 台所で片付けをしているのはジェロニモとハインリヒで、いいよ明日ぼくがゆっくりやるからさ、とジョーが言っても(ハインリヒはすぐそのお言葉に甘えたけど)ジェロニモは静かに笑って皿を磨いた。そのまま広いキッチンで二次会に入る。フランソワーズは男たちに付き合ってられないとイワンを寝かしつけ、昔から使っていた部屋に戻る。他愛もないお喋り。ハインリヒがドイツとフランスの国境で見かけた景色のこと。ジェロニモが出会うアフリカの動物保護区での事件はいつ聞いても面白い。ピュンマが恋人の話をする。皆はそれを黙って聞く。彼らの恋はいつも悲しく終わる。それでも恋をせずにはいられない。どんなに悲しいことがあっても、二度とあの涙を味わいたくないと心に誓っても、また恋をする。心は人間だからだ。
 深酒の用意はあった。めいめいの手がグラスやワインを掴み、リビングに移動する。昔の女性の話、すっかりお約束の思い出話(ああ、ヒルダ!)。気づけば一人、また一人と静かになっている。めいめいソファや絨毯の上で横になる。窓を震わす海風は冷たいが、家の中はあたたかく、そして彼らはそうそう凍え死ぬこともないサイボーグだ。
「ジェット」
 ジョーは最後まで残った隣の男を呼んだ。
「ああ?」
「あのチケット、二十四時間有効だよね」
「分かったよ。男に二言はねえ」
「明日朝一番の水は君が持って来て」
「あいよリーダー」
「おやすみ、ジェット」
「おやすみ」
 頭の中にもう一つ、おやすみ、という声が響いてパチリと明かりが消えた。
「おやすみ、イワン」
 ジョーは瞼を閉じた。

 翌朝、まだ暗いリビングで最初に目を覚ましたのはジョーだった。水が飲みたかったが、ジェットはクッションを抱きしめ気持ちよさそうに寝ていたので起こさなかった。素足で床を踏み、キッチンに向かう。驚いて息を飲んだ。思ってもない人影があった。
「おはよう、ジョー」
 グレートが水を飲んでいる。
「早いね」
 ジョーはキッチンテーブルにかける。
「酔い覚まし?」
「飲むかい」
 グレートは新しいコップに水をくんでくれた。
「幾つになった?」
「また十八さ」
「青春だな、若者よ」
 水の入ったコップで乾杯し、一気に飲み干す。
「今年はいつまでいるんだい」
「さてな。スケジュールはしばらく白紙だ」
「ジェロニモとフランソワーズは明日の便で帰るって」
「張大人は」
「今年はみんながいなくなるまでここで料理作るってさ」
 昨夜のお喋りをジョーは話して聞かせる。ピュンマの新しい恋人。
「春だな」
 グレートは笑う。顔にできる皺に年齢が感じられる。四十五歳という彼の止まった時間と、彼らが重ねてきた長い長い時間の降り積もった陰影。
「君はイギリスに帰るの?」
「そのつもりだが」
「一緒に行こうかな」
 ピュンマも途中まで一緒だろうし、とジョーは指を折った。
「列車の旅なんてどう?」
「どうしたい、突然に」
「思いつきだけど。昨日ハインリヒが言ってたよ、ドイツとフランスの国境で見たって言う景色の話……」
 リビングでテレビの点く音がした。天気予報が今日は暑くなるだろうと伝える。
「ジョー」
 呻き声が聞こえた。
「水…水持って来てくれ」
「相当飲んだな」
 グレートはシッシッとチシャ猫のように笑う。
「君には負けるけどね」
 ジョーはウィンクして、トレーに五つのコップと水差しを載せた。




2014.5.16 ジョーの誕生日に

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