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 Sore wings, but steel feet




 がらんとした部屋に数個のダンボール箱。窓のブラインド、部屋の中央に敷かれたカーペットの他、ぬくもりを感じさせる家具はもう残っていなかった。クローゼットの中身は空っぽで捨てられたか、ダンボールの中に詰め込まれている。本棚とベッドは午前中に電話をすると昼過ぎには家具屋が引き取りに来た。最早誰が住んでいたのか、その痕跡を残すものはほとんどなくて…、例えばカーペットに落ちた煙草の焦げ跡に思いを巡らせるには日常的すぎて、些細だ。壁紙には小さな押しピンの跡が残っており、ハインリヒの目にはそこに留めていた写真一葉を思い出すことができたし、壁紙の日焼けに取り残された微妙な色の違いを感じ取ることができたが、次にこの部屋を使う住人はどうだろう。あるいは大家は。アルベルト・ハインリヒがここに存在した痕跡を嗅ぎ取るだろうか。
 狭いキッチンの脇には冷蔵庫が今も動いている。これが最後の荷物だった。野菜室に残ったジャガイモは昼食で平らげた。最後のビールは、正真正銘これがラスト一本。ハインリヒは引っ越しの荷物の上に尻を落とし、乾杯をしていた。さらばベルリン、さらば思い出の街、さらば遠い雨の記憶よ、昨日までの従軍の日々よ。
 ブラインドの羽の隙間からは、曇り空の下で穏やかに冬の月曜日を満喫するベルリンの街が見えた。もうすぐ迎えが来る。トラックの音が聞こえたら出かけよう。
 そのような思いだったので、カーペットの上で電話が鳴った時は驚いたし、存在も忘れていた。そもそも電話などほとんど使ったことがない。連絡を取りたければこの脳に直接アクセスすればいいのだ。まあ大体無視するが。
 黒い受話器を持ち上げると、よう004、と懐かしい声が呼びかけた。
「…007か」
「久しぶりだな。とは言えヴェネツィア以来だ。前に比べればそう間が空いている訳でもないが」
「女王陛下のスパイが月曜の昼間から何の用だ」
「お前さんがベルリンを発つという情報を得てな」
「耳が速い」
「いやさ、どうこう言うつもりはない。一つ祝いの言葉も送っておこうと思って」
「祝い?」
「ジェットと暮らすんだろう」
 当たり前のように言われて、まあ半世紀も前からバレている関係ではあるが、今更ながらに恥ずかしい。ということはジェットが喋ったに違いないのだ。あいつめ、調子に乗りやがって。
「時間があれば祝杯でも挙げたいところだが」
「安心しろ、グレート、もう飲んでいる」
「そりゃいい」
 でも式には呼んでくれよ、と言われ、そんなもの…、と言い返すとグレートが、いやぁ…、と電話の向こうで意味深に笑うものだからジェットが何を言ったか分からない。
「…ま、アル中も卒業したあんただ、訪ねて来ても無下にはせんさ。家が出来上がったら遊びに来てくれ」
「カナダの森に丸太の家か」
 宇宙人にさらわれるなよ、とグレートは茶化す。映画の観すぎだと言ってやった。
「あんたの方はどうだ、グレート。退職に向けて順調か」
「それが、ついてまわるのがしがらみというやつだ。当分続きそうだ。世界の革新もだが、ドバイの被爆だってまだ片付いちゃいない。俺は半分寝ていたようなもんだが、事の核心に触れすぎている…。しかしどうして、まあまあ気に入ってなくもない。面倒だが恩恵も多い。お前さんたちの動向も逐一分かるしな」
「009の、だろう」
「俺があの坊ちゃんを贔屓しているとでも?」
「違うか?」
「リーダーでありながら息子ほどにも齢が違うんだ。目が覚めたばかりと来ては気にもなる」
「言い訳は見苦しいぜ、英国紳士」
「邪推はゴシップ屋にまかせる。お前さんがカナダの鹿撃ちになる前に転職するつもりがあればの話だが」
「邪推されるだけの心当たりがあるらしい」
「さてな」
 二人は一拍置いて電話の向こうとこちら側で同時に笑い出した。ここ十年も不在だったリーダー、島村ジョーが帰ってきたことを、ともかく彼らは喜んでいる。憂いの瞳の坊ちゃん、女たらしの若造め、とうとうご帰還かと思いきや早速フランソワーズといちゃついて。全く、こっちの身にもなってみろ!
 とは言えお帰り、おめでとう、また会えた、古い、旧い、九人の仲間よ。
「ジョーはまだヴェネツィアにいるのか」
 尋ねると、いや、とグレートは答えた。
「イスタンブールと行ったり来たりさ。ギルモア博士の代わりに財団の後処理をしている。あの基地は閉鎖だろうが、俺たちはメンテナンスが必要な身体だ。拠点は必要になる」
 また集まって話し合うことになるだろう、どうだ、お前とジェットの結婚式と合わせてカナダで会議でもやろうか、と茶化すグレートは楽しそうだ。
「いや……また我々はヴェネツィアに集まることになるだろう」
「…そんなに重いのか、ギルモア博士は」
「あの齢で、今回の事件だ。がったりくるのも無理はない」
 フランソワーズから聞いた話では、最近ではベッドから起きない日もあるそうだ。長くはない、と皆感じている。イワンなぞはその命のカウントダウンが見えているのだろう。ずっと隣に寄り添って話をしているという。
 二人はどんな話を話すのだろう。どんな思い出があるだろうか。仲間がばらばらになり、ある者は違う時をさえ生きることになった、共有されなかったこの十年間。イスタンブールのギルモア博士とイワンはどんな会話を交わしてきたのだろうか。
「俺たちもあの人とは話す必要があるだろう」
 グレートの科白には黙って頷いただけだったが、受話器の向こうで相手もそれを感じ取ったようだった。
 その時、記憶を刺激する音が耳を掠めハインリヒは顔を上げた。徐々に大きくなりながら近づくその音は束の間流れた穏やかな空気を切り裂き激しく震わせる。
 かつて毎日のように耳にした。
 懐かしい。
 しかしベルリンという首都の、郊外でもない街のど真ん中で聞くはずもないジェット音。
 おいおい、と受話器の向こうから声がする。ハインリヒは頭を抱える。相手がブラインドのかかった窓の向こうで手を振る前から分かっていた。
「…迎えが来たらしいな?」
「トラックでと言ったんだ。荷物があるんだぞ…冷蔵庫も」
「で?」
「あの馬鹿、飛んで来やがった!」
 爆笑が受話器から溢れ出し、ハインリヒは窓の外を見ることができずいよいよ頭を抱える。
「いいじゃないか…いや仕方ない、天使はこちらの都合など考えないもんだ」
「何だって!?」
「経験論だ。俺は本物に会ったことがあるんでな。じゃあジェットに言付けておいてくれ、たまにはイスタンブールにも連絡をしてやらないとジョーが拗ねるってな」
 よい旅を、と言って切れた電話を戻しハインリヒは溜息をつく。できるなら無関係を装いたいがこのままでは騒ぎが大きくなる一方だろう。覚悟を決め勢いよくブラインドを上げ、窓を開け放つ。
「何のつもりだ!」
「何って…時間だぜ、ハインリヒ。迎えに来たに決まってるだろ」
 先日までの深刻そうでペシミスティックな雰囲気はどこに行ったのか、目の前には改造された足をジェット噴射させ天使には程遠い優雅さのなさでジェット・リンクが飛んでいる。青い目を楽しげに輝かせ、ヴェネツィアでは考えられなかった笑顔で。
 通りには目を丸くした人々が足を止め、大家がこちらを指さして何かを喚いている。引っ越しの日に、最後の最後に何てことを。思い出の街をしんみり旅立つことさえできないのか。さっきまでの乾杯の気分を返せ…! 胸の中で渦巻く文句のどれから言ったものか、結局一言も言えずにいると、腕がぐんと窓辺に向かって伸ばされた。
「さあ行こう、オレたちの新天地に」
「…お前、俺を抱えて飛べるのか!?」
 ハインリヒは半ば悲鳴じみた声で尋ねたが、
「もちろん飛べるけど!」
 ジェットは誇らしげに、自信満々でそう答えたのだった。

 カナダを選んだ理由。
 昔、そんな話をしたことがあったから。
 大自然に囲まれて暮らすのも悪くないと思ったから。
 それから。
「アルベルト!」
 大声で名前を呼ばれ、ハインリヒは顔を上げる。耳慣れたジェット音。木立の向こう、青空に一筋の飛行機雲を描いてジェットが帰ってくる。
 何だかんだでこの男は空を飛ぶのが好きらしい。隣の家まで自動車で一時間も二時間もかかるこの場所でなら心置きなく飛べるだろう。引っ越しの日、グレートが天使がどうのと言っていた気がするが、まさか天使はこんな姿をしていたわけはあるまい。
 別に天使でなくてなくてもいい。
 俺たちはサイボーグで、人間だ。
 ハインリヒとジェットはカナダの森の丸太の家で、そんな生活をしている。




2012.12.14 RE:ゼロ後。

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