忘れ得ぬ記憶と、新しい約束を波の音だけが永久のように繰り返す。寄せては引き、石造りの建物の内部で子守唄のように響く。グレート・ブリテンは瞼を開いた。真夜中だったが自分が目覚めていたのか、目覚めたばかりなのか判断がつかなかった。青白く波の影が光る天井を見つめ、自分がまだヴェネツィアにいる実感を持つと、一体人生のどこからどこまで夢なのか、それさえ定かではなくなってくる。 立ち上がり、着るためのシャツを探した。そこで自分の肉体を見た。久々に顔を合わせた皆から若作りのしすぎだと言われたが、昨今の四十代中年などこんなものだろう。昔のままきっちりハゲているのだから、いいではないか。 確かに…昔はもう少し弛んでいたかもしれない。あの頃は酒浸りだった。自分が攫われてサイボーグに改造されるとは夢にも思わなかったし、そこで皮肉にも英国人には栄誉な007という呼称コードを与えられ、しまいには実際にMI6で働くようになるとは夢にも…。否、人生が舞台ならば、この夢のような日々も出来事も何もあり得ないことはない。悲劇に喜劇、冒険、スリル、サスペンス。これが人生という舞台の醍醐味だ。 ただ裸の自分の腹の真ん中、見事なでべそを見ていると懐かしくも人生が一続きである実感がじわじわとグレートの中に湧き上がるのだった。そうだ、最初はこれが変身のスイッチだった。もう随分古い時代の話だが。 ぽちりと押せば反射のように身体が反応する。さあ何になろう。どこへ行こう。封を切らないままの手紙が床の上に散らばっている。SISからの帰還命令だ。今更帰ってどうしようと言うのかねえ。世界は変わった。その場に居合わせた、が、こちらは何も知らず眠り込んでいたも同然なのだ。 世界を変えたのは…。 その先頭にいたのは…。 羽音と共に白い羽が降り注ぐ。白い鳥は部屋の中を二、三度旋回し、次には手紙に目もくれず窓から飛び去った。海辺のホテルは起きている人間もなく、誰も人一人姿を消したことに気づくはずもなかった。それこそ、007、グレート・ブリテンの本領なのだ。 白い鳥は月明かりに照らされたヴェネツィアを飛ぶ。あてどもなく、言葉にない何かを探すように。羽ばたきの一つごとにグレートは無心に近づく。鳥の気分だ。言葉を持たない、思考もない、原初の生命の一部としてただ生き、ただ羽ばたき、ただ飛ぶ。これまではそんなことはなかった。グレートの変身する姿はどこかユーモアのある彼の面影を残していた。彼はいつでも自分の姿に戻ることができた。しかし。 彼は急に変身を解いた。地上にはまだ遠かった。ばさりとシャツがはためき、片手をついて着地したものの少しよろめいた。まだ鳥の気分が残っていた。 ――俺は…、 大きな水路をまたぐ橋の上、グレートはぼんやりと佇む。 どこかで水音がした。誰かが直接水面を渡ったのだろう。意志を持つ人々は世界中に現れ始めている。彼らサイボーグ戦士だけではない。意志の力に目覚めることによって新しい世界の一歩に踏み出した人たち。グレートもそうだったのだ。船の上から、桟橋の沈んだ海面へ足を下ろす瞬間。歩ける、と当たり前のように思い、自分の考えに驚いて一瞬躊躇した。しかし意志は揺るがなかった。靴底はしっかりと水面を踏んでいた。そのように歩きたいとグレートが望んだから。 これが人間の潜在的な能力なのか、それとも神とも呼ぶべき存在から与えらえた力なのか。ピュンマは早速その研究に取り掛かるらしい。あの羽の生えた化石が本当に人類の祖であるとすれば、現在のこの力は先祖がえりにも近い、人間という生命に本来備わっていたものということになる。しかしだとすればあの天使はどこからやって来たのか。生命樹の中に名を刻まれる存在なのか、それとも天使らしく空の彼方からこの地上に舞い降りたものなのか…。 ――難しいことは分からん。 神は天にいまし、だ。昔からそう言っている。 グレートは気になって何となく後ろを振り返る。しかしそこには誰もいない。さやかな月の光が青く落ちるばかりだ。がグレートはそこに、あの少女の姿があるまいか…、と半ば期待した。 あの少女はピュンマの送った天使の化石の写真が見せた共同幻想だったのか。ギルモアたちはそのように片をつけるつもりのようだがグレートは――そして口には出さないがおそらくピュンマも――あの少女は確かに存在していたと信じている。証拠は何もない。ただこの心が信じるままに信じるばかりだ。 天使はいた、俺は天使を見た、そして導かれた、と。 あの日、ニューヨークの路地裏で少女の姿を追いかけた、それが明確な記憶の最後のシーンだ。その後、グレートは自分がどこにいたのか誰にも説明できない。だから言わない。だが忘れている訳ではないのだ。あれは忘却し難い体験だった。 少女はどこへ行ったのか、と瞬時に鳥の姿に変身し上空へ舞い上がった。次の瞬間にはもう、自分が007、グレート・ブリテンであるという意識は薄れていた。 ただ光に導かれるままに飛んだ。 何かが問いかける、一体どこへ進むのかと。 しかし魂の奥まで浚っても答える言葉はなかった。この世はまるっと一つの舞台、儚き人生は一芝居。幕が下りるまで舞台から逃げ出すことなどできないのだ。行く先はない。ただここにいる。舞台の上の役者は孤独かって? いやいや、そんなことはないさ。ほら、あそこに見えるだろう。雨の中、ビルの屋上で戦っているだろう。俺はあいつを知っている。あいつはいい奴でな、優しすぎるのが弱点だが、俺たち仲間の中でも一番強くて頼りになる男さ。ほら、負けないだろう? 走って女を助けにいった。そら、やった! 流石、俺たちのリーダーだ。 そうさ、俺はあいつを信じているよ。あんたもついてくるかい。一緒に見てりゃああいつがどんなにすごい男か分かる。損はさせんよ。俺がどこへ進むのかって? そうだなあ、取り敢えずあいつの行く先について行ってやろう。お、海の中を泳いでいる銀色の魚、俺はあいつの名前も知っている。おーい、008、お前さんも来るか? 無心で羽ばたき続け、その先々に命を見た。光を見た。死を見た。強烈な死。そして無人の舞台の静けさ。だが人間誰も幕が下りるまで舞台から逃げ出せない。グレートの追いかけた姿はその中心にただただしっかりと、意志をもって在り続けた。それが島村ジョーという男だった。 人類変革の瞬間まで、自分は本当はどんな姿でどこを漂っていたのか、客観的に申し述べることはできないが、自分の中の出来事としてグレートは決して忘れ得ない全てを覚えていた。そして無心のまま飛び続け、とうとう最後に一つの窓辺に舞い降りたのだ。 緑色の窓枠。波音が背後から聞こえる。それを子守唄にするように部屋の中の男は眠っている。あたたかそうな布団に包まれているのを見て、ホッとする。 よく眠っているな、009。 そう声をかけたつもりが窓ガラスをつついていた。その時初めて窓に映る自分の姿に気付いた。 鳩だ。白い鳩。 自分は一体何者だ? 男は目覚め、窓を開ける。その顔が間近に近づき、彼は心の中でジョーと呼びかけるが、身体が勝手に鳩らしい反応をしていて空へ飛び立ってしまった。 俺はどうして鳩の姿をしているのだろう。俺は誰だ。見下ろす窓辺に佇んでいるのは009、島村ジョー。ゼロゼロナイン…懐かしい響きだ。俺にもそんな呼称コードがあったはずだ。 やれやれ、役になりきって自分の名前も忘れてしまうとは。 海を行く船の上に舞い降りた瞬間には人間の足で立っていた。操舵室から顔を覗かせた船長が目を丸くしていた。グレートはにやりと笑った。 「ユーロの持ち合わせがないんだ。ポンドでいいかね?」 国はイギリス、そして自分の名。 グレート・ブリテン。 イギリス人としてこれ以上の誉はない、呼称コードは007。 記憶の旅を終え、グレートはまたぼんやりした気分で橋の欄干にもたれかかった。SISからの帰還命令はもうこの際、無視してやってもいい。馘にしたけりゃすればいいだろう。ジェットの話を聞くだにも、我々サイボーグ戦士は兵器としてしか生きられん。しかし人間は変わり、世界が変わろうとしている。ここらで自分の生き方をもう一度変えてみよう。役者からアル中、アル中からサイボーグ戦士、サイボーグ戦士から女王陛下の007、007からもう一度、グレート・ブリテンへ。 またオーディションを受けてみるのも悪くないかもしらんなあ。昔の顔を知っている人間はそう残っておらんだろう。また皆から若作りと言われたこの姿だ。なかなか男前だろうて。 「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ…」 川面に映った自分の姿を見下ろして呟いた。諳んじるには有名すぎる文句だが、自分の身体には血とシェイクスピアが流れているのだからしょうがない。 「…シェイクスピア?」 尋ねる声に顔を上げた。一人の青年が橋のたもとから歩いてくるところだった。 「懐かしいね、君の口から聞くのもすごく久しぶりだ」 「ジョー…」 「こんばんは、グレート」 懐かしいはこちらの科白だ、と、穏やかな雰囲気を纏わせた島村ジョーの姿に彼は思った。 「散歩かね」 「君こそ」 「眠ってしまうには勿体ない月夜でな」 水面に輝く月光の中に一瞬、天使を探す。しかしそこにはいない。 だが、見ているだろうか。 「僕も、なんだか目が覚めて…」 ジョーは今、この街のどこかにあるというフランソワーズのセーフハウスに厄介になっている…と、この表現は正しくないだろう。ようやく手に入れた平穏だ。フランソワーズはもうジョーのことを手放したくないに違いない。 野暮なことを尋ねるのは英国紳士の取るべき態度ではない。そうかい、と簡単に相槌を打って、さてどうしたものかとジョーを眺めれば、散々見つめてきたものが見飽きないものだ。ふ、と微笑するとジョーは困ったように笑って、何だい、と言った。 「いや、君とこうして向かい合うのも久しぶりだな」 「そうかな…」 ジョーも欄干にもたれかかる。 「僕、記憶が戻ったんだ」 「ああ、リセットされていたはずの記憶まで戻ったらしいな。財団施設が大方壊滅してしまったからなあ…、設備が整い次第またメンテナンスだろう」 「うん……、でも僕はもう記憶を消してもらうつもりはないんだ」 「繰り返しの記憶も…かね?」 黙ってうなずくジョーは、それなりに考えもあるのだろう。瞳の奥に憂いの影を覗かせた。 「無為な繰り返しに見えるかもしれないけれど、あれも僕の人生の一部だったから…」 「そう、か」 幕が下りるまでは全て自分の人生。 「君は何度も僕に会いに来たね」 「…そうだったか?」 「僕は全部覚えてるし思い出せるんだよ、グレート」 ハゲ頭を掻くと、どうせ僕が忘れると思ってた?とジョーは尋ねた。 「そう…思わなくもなかったさ」 「そうだね、勿論そうだ」 だが、とグレートは付け加えた。 「それは寂しくもあったよ」 「僕が高校生活を繰り返している間、一番僕に会いに来たのは君だった」 「まさか」 「ギルモア博士は僕の記憶を刺激しないようにしていたから、君の方が知っているかもしれないけれど、フランソワーズの監視もそういう形で行われていたんだよ。イワンさえ、僕に話しかけることはしなかった」 「まあなあ、001の声を聞いたら一発で目が覚めちまう」 「でも君は僕に会いに来た…」 「…財団とは距離を置いていたし、記憶のことは知っていたが、博士の意向までは気にしなかったんでな。それに君の動向を知ることは現在の職務の上でも気になった」 「それだけ?」 「それに君は…旧い友人だ」 それを聞いて微笑んだジョーが手を差し出した。 「ただいま、グレート」 グレートは差し出された手をしっかりと握りかえした。 「ただいま、ジョー」 「そう…そうだ、君は一体どこにいたんだ?」 グレートは笑って答える。 「君のそばにいたさ。何せ我々は仲間だからな。窮地の時は共にあり」 手が離れる。誰よりも高性能なジョーの肉体、その掌はあたたかい。 ――美しい手だ。 グレートは握りしめた手をしみじみと見つめた。 ――清潔な手だ。 変わらないという、時の中での残酷さは、しかしグレートの胸に刻みつくような懐かしさを覚えさせた。ああ、俺は…吾輩はきっとジョーの手を忘れないだろう。死ぬその瞬間まで、この掌に刻みつけた記憶は消えないだろう。 「これから…どうする?」 控え目に尋ねられ、思ってもみない返事をする。 「そうだなあ、ひとまず母国に帰って、それからまた色々考えるか。何せ世界も人間も変わっちまった」 「まだ、もう少しここにいる?」 「どうした、寂しそうじゃないか」 「だって久しぶりに、博士も入れて十人が集まったんだ」 「ジェットとも和解した」 「仲直りしたんだよ」 ゆっくり話したいこともある…、とジョーは言葉を途切れさせた。ジョーは皆と別れていた時間、楽しく思い出し話せるものがない。 「でも…君との間には思い出がある」 「ジョー」 グレートは手を伸ばし、ジョーの頬をつねってみせた。 「そんな顔をするな。俺はまた好きな時に勝手に会いに来る」 「それは職務的な意味で?」 「旧い友人として」 橋の上で二人は静かに笑った。スパイ稼業も廃止にするかなあ、とグレートは思わず本音を言った。007、似合ってるのに、とジョーが言う。 「また舞台に立ってみたいのさ」 「…じゃあ、今度は僕がそれを観に行こう」 「いつでも来るといい。飯は不味いが歓迎するよ」 「また張々胡のレストランを手伝いなよ」 「なるほど、その手もあるか」 さて夜の散歩はおしまいだ、とグレートは欄干から離れる。 「またな、ジョー」 背を向けると、グレート、と呼ばれた。 「約束だよ」 掌で腹に触れる。シャツの下のへそのスイッチ。 舞い上がったシャツが白い羽根となり羽毛を散らす。そう、この手は翼に、身体は小さく、しかし空飛ぶ自由なあの姿に。 グレートは鳥の姿のままふわりと空へ舞い上がり、伸ばされたジョーの手の上に降り立った。 「ああ、約束しよう」 鳥の姿のままそう囁くと、ジョーの掌が褒めるように頭を撫でる。勿論だ、俺は君に会いに行くだろう。旧い友人として。無心のまま光を目指して飛んだ、あの時も君を見つめ続けたように、また君の姿が見たくなるさ。なあ、ジョー、俺はお前さんのことが心底気に入っているんだ。 グレートは鳥そのものの仕草でしばらくうっとりと撫でられるままに任せた。 約束だよ、グレート、とジョーが繰り返した。 |