忘却の前のささやかな贈り物眩しい朝日の最初の一筋を目にする。ビルの峰の深く濃い影。空に広がる明けの色。光と闇が分かたれず夜と朝の狭間で溶け合っていたのを、その一条の光線が切り裂く。八秒のタイムラグで太陽から到達した光は、一気に世界を染め上げた。モノトーンから無数の彩色へと。鮮やかに輝く朝の景色へと。世界が目を覚ます。街が蠢き活動を始める。一日が始まる。ジョーはじっとそれを見つめている。 一日が始まる。疲弊しきったシステムの中、惰性で繰り返される怠惰な日常が。 ジョーは冷え切った床にシャツを落とした。空調はさきほど冷気を吐き出すのを止めたばかりだった。床の上に散らばった銅色のワイヤ、プラスチックの容器、細かい屑はまだ片づけられず散乱している。ノートパソコンの画面は七色の波線がランダムに描かれるスクリーンセーバーで、彼がどんな画面を見ていたか知ることはできなかった。 わずかに汚れた指先が掛け金を外し、窓を開けた。オゾン層、遠い空の氷の粒、東京の空を昼も夜もなく薄く覆う塵埃に濾され届く可視の光。熱を感じさせる赤外線。そして人工皮膚が感じ取る紫外線…。ジョーは高性能だ。自らもそのことをよく知っている。大きく吸い込む息に街の匂いを感じた。猥雑で雑多な匂いを、しかしジョーは決して嫌っている訳ではなかった。飽きてはいたけれども。 その瞳は最初から視界の内にあるあらゆるものを捉えていた。だからジョーは見慣れぬそれの違和感を感じ続けていたのだ。しかし徹夜明けで、それをまともに見ようとしなかった。が、それでも主張し続ける新鮮な違和感に、彼はとうとう視線をバルコニーに落とした。 そう、それは新鮮なという言葉を冠すべき違和感だった。コンクリートの上に落ちていたのは緑の葉をつけた小さな枝だった。街路樹のそれではない、瑞々しく鮮やかな緑の葉は露に濡れている。ジョーはそれを拾い上げた。オリーブの枝だと、彼には分かった。小さな実が二つ三つついていて、朝日につやつやと光っていた。 マンションの高層階に何故こんなものが? 何か意味を含んだ贈り物に思える。しかし一体誰が、どうして、どうやって。いくら作業に集中していたとしても、ジョーが窓越しの気配に気づかない訳がない。いや、そもそも島村ジョーという人間がここに住んでいること自体知る者は少ないのに。 ジョーは部屋の中に取って返す。指先にはオリーブの枝をつまみ、足どりは物憂げにゆっくりと。だが彼はコップに水を入れ、その枝をさした。指先が濡れていた。そっと鼻を近づけると、火薬の匂いを洗い流す水の匂いがした。それは懐かしい記憶を喚起した。遠い空の、まだ雨となって降る前の水の匂い。遥か上空で氷の粒と共に気流に流される、あの懐かしい…。 あの、とはいったいいつのことを指すのか。ジョーは手を洗い、胸の奥にわずかに蘇った感傷も一緒に洗い流した。水道水に含まれるカルキの匂いは、ジョーを慣れた日常の中へ連れ戻した。新しいシャツを羽織り、学ランを身にまとう。日本の、東京の、一高校生としての日常に。薄笑いを浮かべてやりたくなるような平穏の世界に。 事実、彼は薄い笑みを浮かべた。目の端に浮かんだそれはかつて憂いを含んだ特徴的な微笑とは異なり、諦念に染まっているように見えた。 テレビを点けると女性キャスターがはしゃいだ声を作って全国の視聴者に話しかける。おはようございます。五月十六日の朝がやって参りました。今日の東京は晴れ、気持ちのよい快晴です…。 朝は通った道を、昼過ぎにはもう引き返している。午後の授業は体育だった。彼はそれをサボタージュすることにした。力の加減ができない訳ではないが、今日はそれがひどく億劫だった。 賑わうファストフード店を横目に通り過ぎる。感じる空腹も、肉体からの義務的なサインとしか捉えない。帰宅すればそれを鎮めるだけのなんらかがあるだろう。別になんでもいいのだ。食べて、水分を摂取して、それから仮眠をとる。夜にはまた作業の続き。夜型の生活、というよりは夜も昼も大して区別していないだけだ。調整は常にこの肉体が行ってくれる。人工改造された、高性能の肉体が。 何軒目かのファストフード店を通り過ぎ、繁華街を抜けたところで一人の男が前から歩いてくるのに気付いた。ただのビル街で、そこを歩くのに別段奇妙な恰好をしている訳でもない。スーツと、腕にかけたコートはもう暖かくなった気候にはちょっと外れているようにも見えたが、夕方は急に冷え込むこともあるからそんな人間もいるだろう。ジョーだってダッフルコートを壁にかけたまま片づけていない。特徴的なのはその頭だった。髪の毛一本さえない見事な禿。しかし面相は意外と若い。 若すぎるんじゃないか、とジョーは思った。 男はジョーの目の前で足を止めた。ジョーもまた立ち止まり、自分より少しだけ背の高い男を見上げた。 「もう学校はひけたのかね」 「自主的に」 「あの優等生が意外や意外、不良をやっているとはね」 「偶にさ。いつもはおとなしい普通の高校生だ」 「そうだな」 笑うと男の目尻にようやく皺が生まれる。 「どこからどうみても高校生、十八歳の若人だ」 「君は少し若作りをしすぎじゃないか、007」 番号で呼ばれた男は表面的な笑顔を残したまま、笑いの気配を引っ込めた。 007。世界一有名なスパイと同じコードネームを持った男であり、彼の母国と同じ名を持つその男、グレート・ブリテンは腕を広げ大袈裟に驚いて見せた。 「若く見えるのは喜ばしいことだが、君の口ぶりからすると貫禄まで失ってしまったかのようだ。そんな風に見えるかい?」 「見えるね」 「職務上適切であるように装っているだけだが」 「じゃあそういうことにしておくよ」 「信じてくれないのかね」 「君が年寄扱いされてむくれたのを、まだ忘れてはいないよ」 ジョーの瞳の奥がかすかに赤く光り、生身の彼と人工頭脳が過去の記憶を遡る様子が一瞬見て取れた。 忘却。それはジョーにとって特別な意味を持っていた。その彼が「忘れていない」と発言したことを、グレートはきちんと胸に受けとめたようだった。芝居がかったポーズを解き、本当に気配を和らげる。 「久しぶりだな。元気だったか」 「まあまあ」 「嘘でもファインと答えるべきだ」 「君に嘘ついたり誤魔化したりしてどうするのさ」 ジョーは一つあくびをする。 「少し眠いかな。それから空腹だよ」 「吾輩も昼食がまだだ。奢ろう。どこか美味い店を知らないかね」 「気にしたこともない。それこそ君の情報網でどうにかならないのか、MI6のスパイさん」 「日本のグルメ情報に詳しいスパイね」 グレートは笑い、ジョーの肩を軽く叩いた。どうした兄弟、ちゃんと食べているか、痩せたじゃないか…、そんな冗談も通じない身体を。痩せようもない。鉄の骨格。人工の筋肉。血の気を薄く透かすものの毒にも強酸にも耐え得る、簡単には傷つかない人工の皮膚。 「ちゃんと食べているかい」 それでもグレートは口に出して尋ねた。 「栄養は足りているよ。充分摂取している」 そっけない答えを返しジョーは踵を返した。ファストフード店に引き返すためだ。背後でグレートが声を上げた。やれやれマクドナルドかね、嘆かわしい。 それなら君の国もこれより美味しい料理を作ってみるんだな、と使い古されたジョークにも似た事実が頭に浮かんだが、ジョーはそれさえ口に出すことはなかった。 ファストフード店はカウンターも客席も混雑しており、グレートがちょっとうんざりとした顔をした。ジョーは構わずセットを二つ注文して二階客席に移動する。 「このテーブル、べたべたしてやしないかい」 「気のせいだろ。清潔には殊の外気を遣う国だよ」 窓に面したカウンター席に腰掛け、ジョーはトレイの半分をグレートの方に押しやる。 「そっちがフィレオフィッシュ」 「気を遣ってくれたつもりかね」 「目についただけ」 ジョーは包装紙を開いてダブルバーガーに噛り付く。紙の立てる小さなぱりぱりとした音や、抵抗のあまりないパンズや肉を食い破ってピクルスを噛む音など、些細な食事の音が店内を満たす雑然としたざわめきの一部となり、ジョーの姿もありきたりな光景の中に溶ける。それはグレートも同じだった。目立つ禿頭に肌の色、目の色、どこからどう見てもガイジンだが、店内の誰もそれを気にする様子はない。流石は東京という都市でもある。 「いつもこんな食事を?」 グレートも、ジョー直々に選んでくれたフィッシュバーガーに噛り付きながら尋ねた。 「さあ。あまり落ち着かないけどね」 「家にはカップラーメンの山とか言ってくれるなよ」 「そんな訳ないよ。缶詰さ」 それは冗談好きの英国人向けのサービスではなかった。ジョーは事実を言っただけだった。だからグレートも笑わなかった。 「いつも何をしている?」 「普通の高校生」 「その他は?」 「それは君の方が詳しいんじゃないのか」 「どういう意味だね」 するとジョーは軽く首を傾げてグレートを見た。 「君が007だから」 スパイ稼業も思えば長い。ゼロゼロナンバーサイボーグとして活躍していた時期、確かに彼の変身能力は潜入や調査などでも非常に役に立ったが、まさかコードネームに一番相応しい職場に身を置くことになろうとは想像もしなかった。 そうだ、俺は007だ。現在世界中に散り散りになったゼロゼロナンバーサイボーグの動向を誰よりもよく知っている英国スパイだ。 「…知るはずもない」 軽く俯くと、嘘だろうとでも言うような視線が投げられた。 「今朝だって…」 「今朝?」 「ぼくはてっきり君が鳥に…」 呟きかけた言葉を、ジョーは無理やりに飲み込んだ。感情を隠そうとしているのが分かって、グレートは話題の矛先を逸らしてやることにする。 「かつてはよく化けたものだ。鳥は得意中の得意だったね」 「アイツだと目立ちすぎるから」 懐かしさに思わず浮かぶ笑みが急に消える。 そうだな…、と小さくジョーは呟いた。アイツだったとしたらもっと気付いているはずさ。そう、言葉にならない思考のノイズのようなものがジョーの電子頭脳を駆け抜ける。 「何かあったのかね」 敢えて尋ねる言葉に、ジョーはコーラを一口飲み敢えて答えた。 「今朝、バルコニーにオリーブの枝が落ちていた」 「だから鳥だと?」 「相場だろう。世界が水に覆われた訳でも、雨上がりでもないのにね」 「なるほど、暗示的なプレゼントだな」 「プレゼント」 「いつか君からもプレゼントをもらった」 「箱根の温泉旅行だ。君の誕生日に僕がプレゼントした。君が張々胡にもフランソワーズにもふられたから、僕が付き合った」 「あの時のお返しをしていなかった」 グレートは少し大きめの封筒を取り出し、ジョーに差し出した。 「すっかり遅刻してしまったが、五月十六日に変わりはない。誕生日おめでとう」 しかしジョーはコーラのカップを掴んだまま、それを受取ろうとしなかった。 「なに?」 「先月、我が国の領海空域で撮影された写真だ」 「映ってるの?」 「飛行機雲程度だが」 ジョーは結局それを受取らなかった。その代わりにグレートに尋ねた。 「君は一体何年遅刻をしたんだ?」 忘却。リセット。それらのキーワードと共に、この質問もタブーに近かった。グレートは窓の向こうに目を向け、冷めかけたバーガーを齧った。ジョーもまた深く追求はしなかった。受け入れた運命に文句を言う気持ちはとっくに失せていた。 コーラーをすするズズズという音が響いて、ジョーは短く笑った。グレートが横目にそれを見た。憂いを含んだ微笑でも、素直な笑いでもない、目元に浮かんだ諦念にまた彼も気付いていた。かける言葉はなく、二人の間にはしおれかけたポテトがあるだけだった。グレートはそれをつまみながら、我が国のフィッシュ・アンド・チップスの方が美味い、とぼやいた。ジョーは同意しなかった。 「で、結局なにしに来たのさ」 店を出てジョーは尋ねた。 「君の誕生日だったからな。様子を見に」 「それだけ?」 当然だろうと言うようにグレートが肩をすくめ、ジョーはため息をつく。 「MI6って暇なんだな」 「わざわざ君のために時間を作って来たのに」 「残念だったね」 大袈裟なため息をつくグレートを、ジョーは笑って見ている。 「そのような訳でスケジュールが押しとるんだ。もう飛行機に乗って帰らなきゃならん」 「かわいそうに」 「ああ、実に報われない。お前さんが薄情なせいで」 「見返りを求めるのか?」 ジョーは不意にグレートの目の前に立つと、頬に唇を掠めさせた。 「…おいおい」 呆気にとられたグレートが頬を擦りながら言う。 「そういうのは大事な時に取っておけよ、ジョー」 「今更いつのために取っておけって? それにどうせぼくは忘れるよ」 一年に一度、その日が来たら。 島村ジョーは全てを忘れる。記憶をリセットし、十八歳の自分に戻る。ゼロゼロナンバーサイボーグの最高傑作にしてリーダー、009であるために。あり続けるために。 「…そろそろ行こう」 グレートは空を見上げた。 「吾輩は飛んで帰るわけにはいかんのでね」 「元気でな、007」 ジョーが手を振るのをグレートは掴んだ。束の間、視線が合った。ジョーの手を、グレートは軽く握りしめた。 「冷たい手だ」 「………」 「美しく、清潔な手だ」 「………」 グレートがそれを軽く持ち上げ手の甲に唇を落とすのを、ジョーは黙って見ていた。軽い接吻の後も、グレートはその手を見つめた。離さなかった。 「朝露の匂いがした」 「オリーブの匂いだよ」 「また会おう。元気で」 急にそっけなく手が離される。くるりと向けられた背にジョーは尋ねた。 「それはぼくらの職務的な意味で?」 するとグレートは振り向き、背中越しにウィンクを投げた。 「旧い友人として」 グレートの姿はいつの間にか消えていて、ジョーは歩道の真ん中にぽつんと佇んでいた。 ビル風が吹き、ざわめく音がした。顔を上げると街路樹がその梢を鳴らしていた。ジョーは初めてそれに気付いたように排ガスと埃に汚れた街路樹の葉を見上げた。その向こうには背の高いビルにいびつに切り取られた空が見えた。狭い空を白い雲が一筋横切っていた。飛行機雲だ。ジョーは耳をすます。もしかしたら遠い空を飛んでいるのかもしれないジェット機の音を、しかし彼は拾うことができなかった。 ジョーは歩き出す。繁華街を抜け、自分の巣であるビルの高層階へと戻る。頭一つ飛び出たビルのその部屋に戻ると、ようやく街を抜け出した気分がした。 遅い午後の光が部屋に射していた。床の上は今朝のまま、ものが散らかっている。ワイヤ。プラスチック片。それから脱ぎ捨てたシャツ。 しかし椅子の上には小さな生命が鎮座ましましていた。コップにいけられたオリーブは瑞々しく、丸みを帯びた緑の葉をつやつやと光らせていた。ジョーは床に座り込み、椅子にもたれかかる。オリーブの前で、彼はまばたきをした。それから緑の葉の優しい色に吸われるように瞼を伏せた。 「また来ん十八の春、か…」 唇が小さく紡いだ。 眠りが近づいてきていた。今夜は目覚めないかもしれない。それでもいい、とジョーは瞼の闇の中に意識を手放した。 |