旅は道連れ、四月一日次の日曜、誕生日だろ。 そう言ってジョーが白い封筒をひらりと差し出すと、あいや、と声を上げたのは後ろの張々胡だった。 張々胡飯店、午後のピークも過ぎ、店内は飲茶を楽しむ客が残っている程度で昼食時の喧噪が嘘のように失せている。そこへジョーはフランソワーズを伴ってやって来たのだった。 週末の四月一日、グレート・ブリテンの誕生日。 カウンターで暇そうにしていた当の本人は 「ほっ」 と一声笑って、どれどれと早速封を切る。 中から出てきたのは列車と宿のチケットだ。ジョーは数枚重なったそれを指さした。 「張大人と一緒に行っておいでよ」 「スパかい? 箱根の」 「英語で言うと違う場所みたいだなあ。そう、温泉」 「オンセンか。日本のオンセンと言えば熱海じゃないのかね」 「それは新婚旅行のメッカよ、007」 笑ったのはフランソワーズだ。 「下調べは万端ということだな、003」 「あら、何の?」 「とぼけなさんな」 「フランソワーズ、熱海に行く予定があったのかい?」 ジョーが尋ねると、ほら、これだもの、とフランソワーズは肩を竦める。 張々胡が、カンカンと中華鍋を慣らした。 「お心遣いは嬉しいけどね、009、日曜にお店は休めないアルよ」 「臨時休業にすれば?」 「何てこと! 新年度一日目にして日曜日アル、お客様がわんさと来るね。このかき入れ時に休むなんてとんでもない!」 「確かに006と二人旅じゃあ色気がねえやな」 「おまはんも何を失礼なこと言うか!」 プリプリしながら張々胡は火を吐く。中華鍋の中身がぼっと一瞬燃え上がる。 「003、一緒にどうだい」 「結構ですわ。それに、日曜はもうずっと前からお芝居を観に行くことに決めていたの」 フラれちまった、と笑うと厨房から張々胡が、当然アル、と冷たい言葉。 「彷徨える中年の魂のさだめか、我が輩には一人旅が似合いだ…」 グレートは、よよとカウンターにもたれかかるがフランソワーズも張々胡も笑って相手にしない。 「たまには一人で羽を伸ばすのもいいんじゃない?」 「確かにそうだが、折角もらったのに勿体なかろう…」 ふとグレートは手にしていた封筒でジョーを指した。 「お前さん、一緒に行くかい?」 「え、僕…?」 それまで黙って見ていたジョーは急に自分に振られたので、思わず手を振った。 「でもそれは僕があげたものだし」 「これが我が輩のものなら、我が輩が誰を誘おうとも自由だろう」 「009、旅の途中で散々シェークスピアを聞かされるアルよ」 「嘘八百の自慢話もね」 「006、003、横から口を挟むな」 「…僕は」 ジョーが口を開くと、三人が一斉に振り向いた。 視線を一身に浴びたジョーは少し照れながら答える。 「007がいいって言うなら。箱根、初めてだし」 「おやおや、本決まりだ」 グレートは嬉しそうにジョーの肩を抱いた。 「旅は道連れ世は情け。持つべきは友だなあ、009」 「はいはい、まだお客さんがいるのこと。ダラダラしないよ、007」 でないと賄いを食べさせないアル、と張々胡が脅すのでグレートはチケットをポケットの中に押し込み慌てて厨房に戻った。 「じゃあ、また連絡する」 ジョーが声をかけると、ひらひらと手を振るのだけが見えた。 登山鉄道の車窓から見える景色は、花見をするには早すぎるようだった。しかし桜の枝は色づき、もう咲くばかりの蕾、枝の間からちらほらと見える早咲きの一輪は春の訪れを知らしめる。 「ねちっこい若葉の季節、だな」 ボックス席の向かいに座ったグレートが言う。 「ねちっこい? 聞かない表現だね。シェークスピア?」 「ドストエフスキー。読まないかい?」 「まだ読んだことないな。これでも少しずつ本を読んでいるんだ」 「今は?」 「三島由紀夫」 「キンカクジ! 有名だな」 「今読んでるのは『仮面の告白』。デビュー作なんだって」 鞄の中に入れてきた、とジョーは網棚の上を指さした。 「君は旅行に本を持っていったりする?」 「我が輩の頭の中には何十冊という台本が入っているのでね。大体手にはボトルを持っていて、本を掴む余裕がなかった」 グレートは両手を広げてみせた。ジョーは黙ってその掌を見た。 「日本の戯曲で何か有名なものはあるかい?」 「え……、ああ、どうかな、僕、戯曲はあまり読んだことが。ええと、寺山修司とか?」 「『書を捨てよ、町へ出よう』か」 「そう、それ。君の方が知ってるじゃないか」 「なあに、本屋で見かけたのさ。我が輩が惹かれたのは泉鏡花だったがね」 「古典の?」 「日本語とは美しいものだ。ジョー、我々は今脳内の翻訳機を通して会話しているが、お前さんとの付き合いも長い。時々、翻訳機を切って日本語を聞いてみるんだ。若者言葉も面白いが、例えば芝居の科白なんかを聞いているとな、言葉が春の心地良い東風や、たおやかになびく葉末の音、小川のせせらぎみたいに、穏やかな流れとして聞こえてくるんだよ」 「……すごいね」 「ん?」 「日本語をそんな風に考えたことはなかった。いつも喋っているのに」 「常に傍らにあるものは気づかないものだ、青年」 教師めかしたグレートの言葉に、ジョーは少し笑った。 停車駅で駅弁を売っていたので、窓を開けて二つ買う。温かいお茶もついていた。 「最近は張大人の中華ばっかりだったから、日本の味が新鮮だ」 グレートは煮染めを頬張りながら喋る。 「晩飯は宿で?」 「うん。部屋に運んでもらえるんだ」 「上げ膳据え膳というやつだな。ありがたや」 列車は桜の枝を掠めて走る。 「山は桜が遅いのかね」 「桜の品種も違うんだよ。今過ぎていったのは、多分八重桜。染井吉野より遅いんだ」 「見ただけで分かるのか」 「子どもの頃を過ごした教会に植わってた…。それに今は高性能の人工頭脳つきだし」 「じゃ、今ので我が輩も記憶したかね。八重桜に染井吉野か」 「お弁当を食べる前、ちらほら咲いてるのを見たろう? あれが染井吉野。八重桜は…」 「八重」 グレートが日本語で発音したのをジョーの耳は聴いた。 「…そう、花びらが重なってるんだ。色も少し濃い」 「やえざくらにそめいよしの」 グレートはゆっくりと発音する。 「春の呪文のようだ」 「そうだね」 日差しは暖かく、ジョーは車窓にもたれる。 「桜が咲くと春になったと思う」 「日本人は桜への思い入れが強いらしい」 グレートがぬるくなった茶をすすりながら、自分も車窓に目を転じる。 「この時期、宿をとるのも大変だったろう」 「そんなことは。誕生日プレゼントを何にしようか考えたのは早かったし」 「そんなに考えてくれたのかね」 「ジェットの誕生日プレゼントを考えてる頃、君の誕生日のことも思い出して一緒に考えたんだ。最初は好きなものをと思ったけど、アルコールはいけない気がして、やめた」 「そこで踏みとどまってくれなくともよかったものを…」 「ご心配なく。夕食に日本酒がついてる」 「ジョー! それでこそ我らがリーダー」 「ほどほどにね」 おだてるグレートを軽くかわし、ジョーは微笑んだ。 温泉旅館は古い建物で、何か出そうだな、と言いながらも嬉々として掛け軸などを捲っているグレートはやはり英国人ということだろうか。迷信深く、お化けや幽霊が大好きな英国人。グレートはどちらかというと、シェークスピアとアルコールの印象だが。 期待していた夕食は美味しく、日本酒もグレートの口に合ったようだった。ほどほどに、と言いつつも何杯も杯を干すので、ジョーはこっそり酒を下げさせなければならなかった。 夜は寒かったが、ここへ来て温泉の醍醐味である露天風呂に入らない訳にはいかない。 「やあ、極楽だ」 湯船につかったグレートは溜息と共に吐き出す。 「いいねえ、これぞ日本。実にいい」 「僕も温泉なんていつぶりだろう」 「フランソワーズとは来ないのかい?」 「彼女は女の子だもの…」 だからこそなんだがなあ、という呟きは胸の中に収めてグレートは苦笑する。 月は雲の影か。空はぼんやりと明るいが、露天風呂の電灯の方が照らす光が強かった。湯は暖色に染まり、時々端を光らせた雲の影が映った。 「グレート」 「何だい」 「今日、翻訳機切ってるね」 「ああ」 お前さんとの会話では不自由しない、とグレートはぴしゃりと額を叩く。ジョーは彼の禿げた額を眺める。 「四十五歳、だっけ」 「また来ん春、また来ん四十五歳」 「もしサイボーグにならなかったら…」 静かな暗い声が湯の面に落ち、グレートは横目にジョーを見た。 ジョーは軽く目を伏せて言った。 「あの時ブラック・ゴーストにさらわれなければ、他の人生があったと思う?」 ぴしゃり、とどこかから落ちた水滴が水面を揺らした。 グレートは鸚鵡返しに繰り返す。 「他の人生…」 「自分の人生の、可能性」 「どうだろうな」 すくった湯で顔を拭い、グレートは自分の両手を見下ろした。 「例えば結婚をし、子どもをもうけたろうか。違うな。それが出来るならばとっくにしていた。我が輩は夫にも、父親にも不向きな男だ。それは変わらんよ。あそこでブラック・ゴーストにさらわれなきゃ、ロンドンの路地裏で野垂れ死んでいただろう」 「そうかな」 ジョーが思いの外にある返事をしたので、グレートは驚き半分、好奇心半分で尋ねる。 「違うと思うかい?」 「…何となく」 「お前さん自身の人生も?」 するとジョーは黙り込み、しばらくの沈黙の後重い口を開いて、分からない、と呟いた。 グレートはまた顔を洗い、表情を和らげた。 「ブラック・ゴーストに改造されたことは感謝しないが、お前さん達と会えたのはこの人生において幸運な出来事だった。それは間違いない」 「…僕もだ。仲間ができた」 「ギルモア博士も入れて、一気に家族が九人増えた計算だからな。寂しい人生から一転、アクション、スリルとサスペンス、ロマンス一杯の人生だ」 「ロマンスなんかあったっけ」 「馬鹿にしてくれるな、ジョー。我が輩まだまだ男ですぞ」 それから彼が語る男の魅力について、ジョーは話半分に聞きながら笑っていた。 月はずっと雲に隠れていた。 それが顔を出したのは二人が布団にもぐりこんでからだ。 障子がさっと明るくなった。草木の影が見えた。 「やっとお出ましか」 布団の中でグレートが言う。 「露天風呂で月を見ながら一杯というのも乙なものだと思ったが」 「飲み過ぎだよ」 隣の布団からジョーも言葉を返す。 「…なあ、ジョー」 「何?」 「お前さんの誕生日は五月だったな」 「うん」 「また来ん十八の春、か」 部屋に静寂が下りる。 グレートはそのまま眠ってしまったものかと思ったが、ジョーが瞼を閉じようとすると、もし、と彼の呟くのが聞こえた。 「もし我が輩が役者として成功を収めたうちに所帯を持っていたら、子どもはお前さんくらいの齢かな」 「…そうかもね」 「お前さんほど出来た息子にはならんかったろうな」 溜息と、寝返りを打つ音が聞こえた。 ジョーは息をひそめていたが、小さく 「僕は前科者だよ」 と呟いた。 するとゆるやかな、低い笑いが聞こえた。 「それがどうしたい。こちとらアル中の三文役者だ」 それぎり返事はなかった。 ジョーは障子の明かりに照らされた古い木の天井を見上げた。隣からはグレートの寝息が聞こえた。狸寝入りなのか、本物の寝息か分からない。しかしそれは穏やかにジョーの眠りも誘い、いつの間にか彼も眠りに落ちていた。 翌、帰路は少し冷たい雨が打った。 駅にてグレートの姿が消えたので手持ち無沙汰にベンチで待っていると、彼は一冊の文庫本を手に戻ってきた。 「泉鏡花」 『天守物語』と書かれた表紙を見せる。 「泉鏡花?」 列車までは時間があった。二人はホームのベンチに腰掛けると、屋根の電灯に照らされて本を開いた。 「雨の件があったなあ。これだ。このあたりは雨だけかい。それは、ほんの吹降りのなごりだろう…」 「女の人の科白だね」 「変か?」 「ううん、続けて」 「鷹狩が遠出をした、姫路野の一里塚のあたりをお見な。暗夜のような黒い雲、眩いばかりのいなびかり、おそろしい雹も降りました……」 途中、ジョーは若い武士の科白を読み、少し掛け合いをした。 雨はしとしとと屋根を、線路を、箱根の景色を叩く。桜の咲く前で良かった。花の散るところを見ることにならずよかった。 なかなかいい旅行だった、と東京に戻ったグレートは張々胡に自慢していた。 |