電子式反復メモリ





 ハインリヒは右手を滑り落ちたペンを見ていた。
 コンクリートが剥き出しの床を音を立てて転がるペンは、部屋の隅でやっと動きを止め
る。築50年は下らないアパートメントの四階ともなると、もしかしたら普通の人間が眩暈
をおこすぐらいには床が傾いているのかも知れないが、そんな微細な差は分からないのか、
はたまた分かってはいても動きに支障が出ない限り意識しないようになっているのか、ど
ちらにしても今のハインリヒにとっては大きな問題ではない。床に落ちたペンを右手で慎
重に拾いあげ、まじまじと変哲の無いそれを見た。いや、見ていたのは変化しすぎた己の
右手であったかも知れない。
 視線を壁際の小さな机に移す。便箋と、封筒と、切手。新居が決まった事をギルモア博
士に知らせるために駅前の売店でペンと一緒に買ったものだ。きっと電話でもよかっただ
ろう。部屋にまだ電話を引いていないこと、近くに公衆電話が見当たらなかったこと、口
頭で住所を伝えるには記憶媒体に疑問が残るギルモア博士のこと(これは流石に口に出せ
ない)など理由はあるにはあるが、戦闘で組むことが多いアメリカ人の仲間には(あの)
鼻で笑われそうだ。それとも、アンタらしいと言われるだろうか。どちらも同じくらい有
り得る。彼は、事ある毎に自分を年寄り…前世紀の遺物扱いしたがる。否定はしないがお
前にだけは言われたくないというのが偽らざる本音だ。
 ハインリヒは頭を振って何かにつけ引き合いに出してしまう生意気な顔を思考から追い
出す。右手にペンを持ったまま机の前に立ち、もう一度手紙を書き出すために体を屈めた。
便箋の一行目にさっき失敗した跡がある。このくらいならごまかせる、と、同じ箇所から
最初の文字を綴ろうとして。
 再び右手を離れて落ちていくペンを、見た。
 三回目は、一度左手に持ちかえた。最初に張大人に箸の使い方を教わった時の様に、慎
重に右手に握る。…握ることはできる。当たり前だ、ついこの間まで日本のギルモア邸で
中華尽くしの食生活を送っていたのだから。しかし、文字を書こうとペンを便箋に滑らせ
るとペンはやはり右手からこぼれ落ちた。
「何だ…?」
 思わず声が出た、言葉のそっけなさとは裏腹に、声の弱さに動揺がありありと表れてい
る。早くも動作不良かと頭が日本に帰りかけたその時、脳の片隅に何かが触れて、ドアに
伸ばした腕が止まった。何か、の正体を突き止めようと記憶を探る。
 思い至った事実にハインリヒは呆然と立ち尽くした。
 そう、この右手は単なる人の義手として開発された訳ではなかったから、BGにいたと
きは利き腕にはあるまじき不器用さに辟易したものだった。サイボーグに許された数少な
い嗜好品のコーヒー、その紙コップすら意識してもきちんと持てなかった。なるべく人に
模したいという無駄にも思えた研究目的のため、ナイフやフォークが使えるようになるま
でに少なくとも半年はかかったはずだ。
 BGから逃げ出してからも、箸の使い方や卵の割り方を練習した覚えはあるが、そうい
えば文字を書いた覚えがない。BG時代はもちろん、日本に居たときもドイツ語しか書け
ない自分は何かを書く必要に迫られた事はない。
 そう、動作不良などではない、単なる練習不足だ。
 仕事上、日本語の読み書きに堪能になった張大人や、買い出しの書きつけに日本語とフ
ランス語の混じった奇妙なメモをするフランソワーズがいたので、自分の右手が一々訓練
を必要とする、外見も中身も『機械』であることを忘れていた。間抜けなことだ。
 ハインリヒはベッドに腰を下ろし、右手で下を向く顔を覆った。涙さえ流さないこの機
械の体の内側からこみ上げる強い感情が何という名のものか、ハインリヒは分からなかっ
た。
 しばらく、その感情にひたった後。ハインリヒは立ち上がり、外出するためにコートを
手にとった。黒の皮手袋も忘れない。徒歩で通うには少し遠い駅前に行き先を決めたのは、
公衆電話があるからだ。
「博士のおかげでどうにか…ええ、はい」
 相手の手元にメモ用紙があるのを確認して、住所を告げる。電話を切った後、文房具屋
を兼ねる本屋に足を向けた自分に、以前には無かった前向きな行動力があるのが分かる。
それが博士やジョーが言う仲間効果なのか、あるいはジェットの言うオレサマ効果なのか
は判然としないが、喜ぶべき変化であるのは確かだ。
 きっと近いうちにやってくる筈のアメリカ人が部屋の中の何本もの壊れたボールペンや、
書き散らされた古紙や、机の上の小さな『かきかたの本』にどんな反応を示すのか想像す
るだけで自然と口の端が上がってきていた。





久しぶりに浮かんだ004ネタ。
(携帯で打った割りに)予想外に長いのは、私が微かに24思考に捕らわれた所為です。
やっと終わった……長かった……疲れたよ、燃え尽きたよ私は…

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