死と祈りと、手ぼたぼたと陰鬱な雨が降っている。時計はまだ正午にも至らない。こんな日は外へ出た かった。 雨の日と、晴れの日。どちらが外出の欲を掻き立てられるかという問題ならば、勿論、 晴れの日の方が誘惑も多く、また期待もある。 ただ今日の場合は、この狭いコンクリートの箱に閉じこもっているのが嫌なのだ。時間 が停滞し、胸の上に死のように横たわる。寝ても起きても同じ事で、少しでも顎を引けば 死の中に顔を突っ込むはめになった。 死とは、隣り合わせだ。また、切り離されている。死はいつでも自在にジェットの側に あった。強健な骨と筋肉。頑丈に保護された人工臓器。今、押し入り強盗に撃たれても、 家賃滞納を理由に管理人に窓から放り出されても、おそらく死にはしないはずだ。ちょっ と痛みに顔を顰め、でも肩のゴミを払えばすぐ平気な顔をして歩き出せる。 しかし数度のメンテをサボれば死ぬだろう。小さな小さな、虫ほどの大きさの部品の不 良でさえ死を招く。 他にも死を迎え入れようと思えば、いつでもチャンスはあったのだろう。 大気圏の外から、この青い星を見下ろしていたときも。 いつの間にか顎を引いている。どっぷりと溺れかけていた。 ジェットは咳き込んだ。今日の雨は冷たい。 家賃滞納。家財は少ない。ベッドも家具も作りつけだった。あとは精々中古のオーディ オ機器とテレビ。ソファは今度引っ越すときも持っていくつもりだったが、この際何かの 足しにでもしてもらえ。ジェットは革ジャンを羽織り、内ポケットに財布を突っ込んだ。 アパートの玄関に佇むと、雨は黒い色をしてびたびたと降り注いでいる。 ジェットは数歩下がって、管理人の太った婆さんの部屋をノックした。婆さんは耳が遠 いので、チャイムの音は大体テレビに掻き消されてしまう。乱暴にノックし、婆さんの名 前を呼ぶと、渋々といった感じでドアが開いた。 「五月蝿いね」 「婆さん、世話になったな。俺、今から起たなきゃいけない」 「あんたぁ四ヶ月分滞納だ。口座番号は…」 「全部残して行くからさ、それで帳消しにしてくれよ」 「口座番号は…」 「婆さん、これ、今の全財産だから」 「幾らだ」 婆さんは手に押し付けられた財布の中身を確かめた。百ドル札が二枚と小銭。 「で?」 「ソファとテレビとCDプレーヤー置いてく」 「ふざけんじゃないよ。口座番号は…」 「達者でな、婆さん」 ジェットは婆さんの頬にキスをし、くるりと踵を返した。婆さんは口座番号を叫びなが ら食いかかったが、細い身体はしなやかに飛び跳ねて玄関の外へ出た。泥が跳ねた。婆さ んは太い尻を揺すりながら後を追いかけたが、開いた玄関扉の外には誰もいなかった。狭 い路地の、右にも、左にも、水を跳ねる足音はなく、ただ黒い雨ばかりびたびたと降って いた。 婆さんは地団太を踏んで悪態をついた。頭上でジェットの飛び去る音がした。 初め「来る場所が違う」と、締め出された。 ので、再度ノックをした。 「開けろよう」 「飛ぶんならドイツに飛べ」 ジョーの冷たい声がドアを越して突き刺さった。背中からは冷気が押し寄せる。雨がそ わそわと細かく降り注いでいた。白く霧のような雨は、その形が分かるものより一層冷た い。冷徹の板ばさみに、爪先が凍えた。 「そんなの俺の自由だろ」 「これだから自由の国生れの奴は好きじゃないんだ」 「差別だ。人種差別だ」 「帰れ。でなきゃ別の所に行ってくれ。博士の家に行くといい。フランソワーズがしばら く公演なくて滞在してるから、心から温まる一杯のスープをご馳走してくれる」 「開けてくれよう」 「………」 「009」 「………」 「009」 「………」 「ゼロゼロナーイーンー」 「…五月蝿いな」 ようやく扉が開いた。暗い陰の中にジョーのうんざりした顔が浮かぶ。心なしか目の下 に隈が見えた。薄いセーターの色さえ暗く沈みこんでいる。 「入れてくれよ。風邪ひいちまう」 「君の選択肢はプリマドンナの温かいスープかドイツの恋人だ。僕じゃない」 「てめえ、邪険にしすぎじゃねえのか」 「会いたくなかったんだ、誰とも。特に君とは」 しかしそう言いながらジョーの手はドアノブを外れていた。 「…もう一、二年は会いたくなかったよ……」 「…………」 言葉が途切れた途端、雨の気配が蘇った。古い木造アパートの二階からは、雨にけぶる 下町の屋根が見下ろせた。どの屋根も色が失せて、犇めき合うその隙間から、微かに人の 匂いが立ち昇る気がした。 どこかの部屋がボイラーを焚いている。霧雨の降る街は静かで、耳を澄ませば混み合う ように生活音が犇めいている。 破れた庇から落ちる雫が屋外の階段を腐食させる音が、テン、テン、と規則的に届いた。 ジョーの部屋の前には古い自転車が一台置かれていた。他の部屋は植木蜂を置いたり、 ひっくり返した長靴が乾かしてあったり、どこか賑やかなのだけれども、ジョーの部屋だ け、まるで無人宅を強調するかのように物がない。自転車も打ち捨てられた印象があった。 ギアがひどく汚れていた。 「燃料が、もうないんだ」 ジェットはぼつりと告白した。 ジョーは俯くと、踵を踏んだまま靴を履き、外へ出た。黒い蝙蝠傘を一本持っていた。 彼はそれを開いて、もう片手で自転車を掴んだ。 「食べ物を買ってくる」 雨が鉄柵を打っていた。時折大きな粒がティン、と音を立てた。ジェットはそれにもた れかかってジョーを見送った。黒い蝙蝠傘がすーっと下町とは反対方向へ平行移動してい った。蝙蝠傘の向かった方向にはコンビニがあった。ジェットはそこを歩いてきたから知 っていた。 鉄柵から手を放すと、濡れた掌に錆がついていた。 ラーメンの汁を飲み干すと、じんと身体が痺れるのを感じた。温かさに追い出された身 体の奥の冷たさが外へ飛び出す際、鳥肌が立つのが分かった。 「ごちそうさま。美味かった。グッジョブ、グッジョブ」 ジョーは陰鬱な顔で麺をすすっていた。 蛍光灯の白けた光に照らされた部屋は一人住まいなのにやけにだだっ広く見えた。四畳 半二間、襖で仕切られている。トイレあり。風呂なし。畳は枯れ草の色をしている。ジェ ットは万年床を想像していたが、反して奥の部屋は電気スタンドと本が二冊、畳の上に置 かれているだけで、後は隅に洗濯物が畳んであった。 ジョーは汁を最後まですすらず、流しに捨てた。洗った器を籠に伏せる。 ジェットは座布団を尻の下にごろりと横になり、古新聞の束を枕にする。ふと、奥の部 屋の窓の今まで映らなかったものが視界に入った。外は暮れかけ、少しずつ地上の暗さが 際立ち始めたが、特に右の端の視界が圧迫される気がする。 「裏の建物、…何だ?」 「教会」 「行くのか?」 ジョーは答えなかった。布巾で狭い台を拭き、手持ち無沙汰そうに膝を抱える。 「…なあ、何で一人で住んでんだ」 「………」 「博士の家、出来たんだろ?」 「僕の自由さ」 尖った屋根の上の十字架を雨が叩く。ジョーが窓の下に床を敷けば、毎晩、毎朝、あの 十字架が目に入るのだろう。 ジョーは、祈るのだろうか。 ジェットは自分の、ただ一度の祈りを思い出した。すっと目の前から現在の光景が消え る。音も消える。感じるのは天高く上る空気の冷たさ。そらの濃い青が、底なしの暗黒に 変わる様。 神など信じなかった。そう言って憚らなかった。 しかし自分は、神を、本当は。 ジェットはハッとして手を上げた。現実のもの一切合切が蘇る。建物の屋根をそわそわ と叩く雨の音。蛍光灯の白けた光。ジョーの腕。今しも振り下ろされんばかりの拳と、そ れを掴んでいる自分の腕だった。 「今…」 ジョーは恐ろしいものを見た表情で声を絞り出していた。 「思い出したな…?」 「…ああ」 次の瞬間、一瞬早く加速装置を使ったジェットは拳を握ったジョーの両手を封じて、馬 乗りになり押さえ込んだ。どすん、と部屋が揺れた。それは物凄い勢いだった。まるで地 震のように部屋は揺れた。四畳半、何もない部屋。ほんの少しだけラーメンの匂い。それ 以外は、お互いの息遣い。蛍光灯が揺れていた。不規則な光が刻々とジョーの表情を変え た。 「生きているなんて…」 ジョーが目の縁に涙を浮かべ、喉の奥から絞り出すように囁いた。 「生きているなんて…!」 「生きてるさ」 「あの時、僕らは…!」 涙がこめかみへ滑り落ちる。。 「この身体が、溶けていくのを、感じた。空気の摩擦と、あの高温、覚えて、るんだよ。 君を掴んだ、この指の、皮膚、が、溶けて、剥がれて」 「俺も憶えてる」 「髪の毛が、焼け、焦げて、頭蓋骨が熱に侵、略されるのも感じた」 「最後だと思った」 「君を見るこの目が、潰れて、…君は、僕の、僕の顔、を、見たんだろう」 「見た」 酷い顔だった。それを見る自分も項から顎にかけて炎が燃え広がっていた。口許や頬の 鉄骨が見えていたはずだ。 でも、とジェットは言う。 「でも、生きてる」 「そうさ、生きてる」 ジョーは泣き笑いのような皮肉めいた表情を浮かべる。 「でも、生きてるって? あの時、僕は意識を失った。熱い。熱い。ただ君だけを抱き締 めて。どの感覚も失って。僕は気を失ったのか。気を失ったってことは、でも死んだって ことじゃなかったのか? 僕らは助けられた。修理された。でもそれは? それはさ? 瀕死の身体を何とか回復 させたの? それとも機能停止していた身体をもう一度電気で動かした?」 「009」 「あの苦しみを覚えている。この脳が? 記憶用回路の情報?」 「009!」 「僕は……本当に生きてるのか? それとも、これも、全部、宇宙を漂う機械の破片が夢 を見ているだけじゃないのか?」 「馬鹿…!」 ジェットはジョーの身体を抱き締めた。ジョーの腕は離されてもだらりと脱力したまま だった。 「生きてる。俺達は生きてる。生き延びたんだ」 「…どうして…」 「生き延びたんだ。俺達は。俺達のために。俺達が。俺達が生きていることは」 言葉が制御されない。ジェットは無闇に叫ぶ。 「希望だ」 ふと、目の前の光景が消滅する。感覚が切り替わる。 共有、される。 ランダムにそれらは流れてゆく。色や形を変形させて。魔神像。脳味噌。地下帝国。ス ーパーガン。宇宙の花火。光。光。光。音。ジェット。イワンの囁き。最後に見た、フラ ンソワーズ。見慣れぬ場所。機械だらけの。音。通信。009。 009。 手を。 手を。 あの手を掴まなければ。 あの手は。 002。 俺の。 手。 そわそわと雨は降り続いている。窓の外には家々の明かりがぽつぽつと濡れて見えた。 部屋は真っ暗になっていた。蛍光灯が割れて、畳の上に散らばっていた。ジェットの背 中にも、ジョーの手の上にもそれは降り注いでいた。 二人はそれをよけながら、ずるずると這うように奥の部屋に入り、襖を閉めた。立ち上 がることが出来なかった。声を出すのも億劫だった。 「…寒くねえか?」 ジェットはしゃがれた声を出した。 「起きれるんなら、起きて、布団を出せばいいさ。起きれるか?」 「無理だ」 どちらからともなく溜め息をついた。 ジェットが電気スタンドの横の本を枕にしようと腕を伸ばしかけ、びくりと震えた。あ わせてジョーの身体も痙攣した。二人はあることに気づいた。 繋いだままの手が、火傷でもしたかのようにくっついて、固まってしまっていた。 赤く焼けた肌、ケロイドの指。 「ジョー…?」 ジョーの鼻から、ふう、と畳の上を擦るように溜め息が出た。 「明日、博士の所に行こう」 少し沈黙し、「ここも引き払うよ」と付け加えた。 ジェットはゆっくりと身体の緊張をほぐして、二人の間に腕を横たえた。見ると、ジョ ーの目が開いて、こちらを見ていた。 「ジェット」 「ん?」 「まだ言ってなかったね。……、ありがとう」 まどろむように、ジョーの瞼は閉じた。 * 翌朝、空は晴れていた。雨上がりの空は、ピンと張り詰めた空気が高みを貫いていて清 々しかった。庭木にも、一階の住人植木蜂にも、きらきらとした露が光っていた。 二人は早くに部屋を出た。男二人がどこまでも手を繋ぎながら歩いていくところなど、 衆目に晒せない。 ジェットは片手でひょいと革ジャンを肩に引っ掛け、ジョーは昨日の装いのまま何の頓 着もしないようだ。 並んで階段を降り、並んで道を歩いた。 電線から雀が数羽飛び立ち、揺れた勢いで雫が落ちた。青空を映す水溜りに波紋が広が った。 ブロック塀の角を曲がり、少しいくとその建物はすぐにみえた。 教会の前で、二人の足は自然に止まった。今朝、窓から見上げた十字架は、朝陽を浴び て白く輝いていた。 二人は今、無言で、なにもせず、何も祈らず、ただじっと教会の前に立っていた。 しかし繋がれた二人の手は、朝陽の輝く道の上、赤く溶けた指の一本一本、固く、固く、 まるで祈るように組まれていた。 |