a drop of syrup高い笛の音が響く。背筋を伸ばしきりりと髪を結い上げたウェイトレスが両手に六つも の大ジョッキを持って込み合う人の間を抜けてゆく。宵の空の下、そこここで聞かれる音 は、これらウェイトレスの口に銜えられた笛が発するものだった。笛の音が響くと、人々 の背中は眼がついたようにウェイトレスの為の道を少しだけ空ける。彼女は巧みに人々の 間を縫い、目的のテーブルに豪快にジョッキを置く。歓声が上がった。 日は暮れたというのに通りはいよいよ人で賑わう。何もこの国の人間ばかりではない。 オープンキャフェには観光客らしき姿も多く見られた。通りには祭りの電飾。ちかちかと 瞬く豆電球の光に照らされた人々の顔は皆、笑っている。その中で鋼色の肌をした青年は 一人静かに頬杖をついて、人波の向こうを眺める。ぽってりと厚い唇。眠そうに半眼閉じ た瞼。溜め息。 ピュンマは派手な飾りのつけられたストローでジョッキに注がれた液体を飲み干した。 約束の時間はとうに過ぎている。五分待ってビールを頼み、今それを飲み終えたところだ が、待ち人の姿はなかった。ピュンマは両手の空いたウェイトレスを素早く捕まえ、また 同じものを注文した。 派手なストロー飾りのジョッキが高い笛の音と共に届く頃、赤毛を少し焦げさせた男は 頬に絆創膏を貼り、悄然とした姿で現れた。ピュンマは笑った。 「またハインリヒとやり合ったのか?」 「ふざけんなよ」 ジェットは不機嫌そうに吐き捨て、どっかりと椅子に腰掛けた。ピュンマがまだニヤニ ヤ笑っているのを見ると、一層不機嫌を掻き立てたようで、彼は届いたばかりのジョッキ を奪い取り、一気に口をつけた。 「む!」 一口目はただ流し込んだだけだったのだろう。ただ第二波の衝撃は予想外だったらしい。 ジェットは目を白黒させながら、しかし口の中のものを吹き出すことも傾けたジョッキを 置くことも出来ず、結局中身を一気飲みしてしまってから涙目でピュンマを睨んだ。ピュ ンマは耐え切れず声を噛み殺して笑い出した。 「な、な、なんだぁ!これは!」 「ベルリナーヴァイゼだよ、知らない?」 「知るか!」 「もう随分この街にいるんだろう?」 「知るか!知るか!」 ジョッキをテーブルに叩きつけた衝撃で、羽やモールの飾りのついたストローが愉快そ うに跳ねた。 大人気ない様にちょっと呆れたピュンマは再びウェイトレスを捕まえる。何か言う前に ジェットが必死の形相で「ビール!」と叫んだ。「と、これ」とピュンマは空のジョッキ を下げさせる。 「思ったより元気そうだな」 「何だ、あの飲み物は!」 「命あっての物種だろ。美味いも不味いも有り難く頂かなくちゃ」 「てめえ…」 ジェットは尚も衝撃の反動をぶちまけようとしたが、何をどう罵ればいいのか言葉が出 てこなかったらしい。そのまま黙り込んだ。 二人が沈黙した途端、周囲の喧騒がわっと盛り上がったように聞こえた。ジェットは両 肘をテーブルにつき疲れたように項垂れた。ピュンマは焦げた赤毛を見つめた。高い鼻梁。 目尻が下がり気味の瞳。不機嫌そうに顰めた口許。原色の服を羽織る様も、ぞんざいに投 げ出した足も、どこも以前と変わらない、ように見える。 ピュンマはそっと目を伏せた。 ジョーがイワンの力により魔神像の中に送り込まれ、それを追ってジェットが大気圏の 外へ飛び立った。あの出来事からもう何ヶ月も経つ。 高い笛の音が近づいてくる。 注文の品が届いた。ジェットは待ってましたとジョッキを手ずから取り、ぐいぐい飲み 干す。勢いよくジョッキを置き、口の周りに泡をつけ、息をついて晴れ晴れと笑う。 命あっての物種。さっき軽口のように叩いたが、いつしかその言葉はピュンマの胸に圧 し掛かっていた。 長く尾を引く流れ星を見た。死んだと思った仲間。いつも寂しげな目で笑う彼は、まる で世界中の悲しみを背負うような顔で死地へ赴いた。そして目の前のこの男は自らの命を 懸けて。 ぼく達は正しかったのか。 ブラックゴーストは確かに悪だった。滅ぼさなければ戦いは終わらない。 しかし魔神像が破壊され、ブラックゴーストが滅びても世界は変わらなかった。帰った 故郷には人間同士の諍いが待っていた。闇雲に傷つけられる樹木。血を流す動物達。彼の 泳ぎ親しむ海の底で爆発する水素爆弾。 大きな問題ばかりではないだろう。人と人との関係。些細な悪意。悪への無関心。 先日、ピュンマはジョーを訪ねた。彼は新築中のギルモア邸で手伝いをしていた。二人 で海を見に浜へ下りた。空は高く澄んでいた。遠くの海鳥の数まで数えられた。会話はほ とんどなかった。ただ海を眺め、昼食の用意が出来たと呼びに来たフランソワーズと一緒 に戻った、それだけだ。 ピュンマはフランソワーズがジョーの手を強く握っているのを見た。 ピュンマはストローを回す。 ジョーは遥か虚空を見つめ、何かを思い出していた。それは通信回路をさわさわとざわ めかせ、ピュンマの心にも届いた。遥か宇宙で、たった独り戦うジョーの聞いた言葉。彼 らが戦ってきた意味。この世界にビールで乾杯する平和と放射能に苦しむ地獄が同時存在 する意味。人間が存在する意味はあるのか。 しかし決してジョーは、009は希望を捨てなかった。自らが希望となり、地上に自分 達仲間という希望を残したと信じ。 あの戦いのことをジェットと語り合ったことはない。 今、目の前で何杯目になるのか分からないビールを呷る男。 変わらないような赤毛、変わらないような鷲鼻。 同じような表情、同じような態度、同じような物言い。 何も変わらないように見せかけて、この男の中には何が渦巻いているのだろう。 「なぁに辛気くせぇ顔してやがんだよ、おい」 絡む口調のジェットは既に顔が赤い。酔っているのだ。 なら、いい、とピュンマは思った。 「きみが生きていてよかったって、しみじみ思ってるんだ」 「はあ!?」 「きみを見てたら、まだやることがあるな、と思ったんだ。ぼくはまだ、008だって」 「俺だって002だぞ、不死身のサイボーグだ、文句あっかぁ!」 「ないよ」 ピュンマはビールをおかわりした。 届いたジョッキをジェットは、ピュンマのジョッキに割れるかと思う勢いでぶつけ、 「プロージットォ!」 と叫んだ。 すると全く関係のない周囲からも「乾杯!」の掛け声が上がる。 「おいおい、ハインリヒが来る前に潰れるなよ」 ピュンマの忠告など馬耳東風か、ジェットは大きなジョッキになみなみと注がれたそれ を遠慮なく飲んだ。 遠方から帰ってきたハインリヒが待ち合わせの場所に来たとき、ピュンマはすっかり潰 れたジェットを前に苦笑していた。 ハインリヒも苦笑すると脱いだ上着をジェットの肩にかけ、ベルリナーヴァイゼを注文 した。と、その顔が怪訝そうにこちらを見る。 「…どうした、ピュンマ」 「なに?」 「笑ってるぞ」 ハインリヒが自分の右頬を指差してみせる。 「そう?」 ピュンマはとぼける。 二人は笛の音と共に届けられたベルリナーヴァイゼで乾杯した。そしておそらく偶然だ ろうけれども、色違いのハートの飾りのついたストローでそれを頂いた。 少し微笑みながら眠るジェットの焦げた赤毛を眺め、ピュンマは心の中で呟く。 まだだ。まだだ。ぼくが、ぼくらが防護服を脱ぐのは。 それは人間に対する絶望のためでなく、希望のために。 |