アースシーの歌ぶつぶつと穴が一つ空く度に、一つ呪文を唱える。 一番星。狼。犀の瞳。 ぶつぶつと穴が空く。僕は椅子に座ってそれを眺めている。 黒揚羽。砂漠。ジェリコ・ローズ。 フライ返しを左手に。僕の右手はいつだって空いているのだ。 水滴。可愛い蜥蜴。古代文字。 ホットケーキはまだ焼けていない面に月の裏側のような穴をぶつぶつと空ける。僕は左手のフラ イ返しでそれを器用にひっくり返す。僕の左手はいつの間にか器用に育っていた。 僕はそのまま足をぶらぶらさせて六十数えた。そしてもう一度ホットケーキを裏返してコンロの スイッチを切った。赤く熱を帯びたプレートがすうっと黒く静まる。まるで夜の訪れのように。僕 はホットケーキを更に移し変えると、踏み台に足を下ろし、それからようやく床についた。 足で踏み台を蹴飛ばしてカウンターの下につける。カウンターの上にホットケーキ。それからま だ暗い内に準備したコップと水とオレンジジュースの粉末。 ようやく両手の空いた僕は踏み台を両手に持って一番右の窓に寄る。 厨房は広い。今は僕一人だけだけれども、もう少し明るくなれば専属のコックが二人、入院患者 や職員の為の朝食を作りにやってくる。僕は夜明け前の厨房で、一人、自分の分の朝食を作る。そ して空調が効き出す前に窓を開け、外の冷たい空気を厨房と食堂に呼び込む。いつからか、多分、 一人で歩けるようになってからの日課だ。 海を渡って来る風はまだ冷たい。日が昇れば温度はぐんぐんと上昇する。夜は風を引きそうな程 なのに。 僕はカウンターの上の蜂蜜をホットケーキにかける。軌跡は真円を描いたつもりでも、それはく にゃりと曲がって愛らしい歪んだ円になる。それを更に六等分して、一切れ、僕は頬張る。鼻に甘 い匂いが抜ける。その時の僕が「実に幸せそうな顔をしている」という指摘をされてから、僕は人 の前で食事することが恥ずかしい。けれども職員達は、そして食堂まで歩いてくることの出来る患 者達は、――僕よりずっと年下の彼らは笑って、口々に言う。「何を恥ずかしがることがあるの?」 風が吹き込む。乾いた大地の匂いがする。潮の匂いがする。部屋の中で攪拌された空気は、少し 消毒液の匂いもする。きっと昨日夜食を摂った誰かの残り香だ。 今日も晴れだろう、と僕は思う。この小さな島で暮らす内、風の匂いや空気の匂い、空の色や空 気の色で僕はそんなことが解るようになった。予知能力を抜きにしても、解るのだ。これはホット ケーキ作りと同じように、僕が自ら習得した能力の一つだ。 僕はフォークを置くと、左手で器用に粉末の袋を開ける。左手でコップに水を汲み、くるくると かき混ぜる。僕自身、自覚したことはなかったが僕は左利きだった。否、すっかり左利きになって いた。 ほんの数年前までは、何時、何が起こるか解らなかった。食事中にミサイルが降って来るなんて 馬鹿げたことも何度も起きた。予知が間に合わないこともままあった。対ESP兵器の開発は対サ イボーグ兵器に次いで盛んだった。ナイフやフォーク程度ならばまだいいが、もっと大きな物を持 っていたのでは即座にバリアを張るという訳にもいかない。この右手が塞がっている訳にはいかな いのだ。僕が右手をかざすか否かで数十人の命に関る事態だって少なくなかったのだ。とは言え、 戦時中の僕は赤ん坊の姿であった期間のほうが長かったから、そんな理由付けには関係なく、僕は 左利きだったのかもしれない。 オレンジジュースを飲み干すと、窓の外の様子が、飲み干す前に見たものとまったく違ってしま っている。水平線から始まってさっきまでなかった色彩が海に、空に、陸に広がっている。太陽が 昇ったのだ。 遠くで誰かが置きだして階段を下りてくる音がした。多分若いコックが目を覚ましたのだと、僕 は思った。 * ジェットに手術の打診をしたのは、僕からだった。僕は十回以上ジェットに連絡を取り、同じ説 明を何度も繰り返した。その内、彼も少しそのようなことを覚えるようになった。 記憶障害を負ったサイボーグの手術。それは生身の人間でも行われたことのない手術だ。だから こそサイボーグの彼の身体は、この実験じみた手術の対象に選ばれたのだった。 僕は今回発案した医者、科学者、そして手術を施すここの職員や招かれた科学者達、誰も非人道 的だと責めはしない。 この手術に関して、僕は言葉にしようとすると、とても変な気分になる。複雑な心境というのは、 きっとこのことだ。 罪悪感、ではない。 理性的でなくなる、というのとも違う。 例えば僕の頭の中を、星空だと言う人がいた。 例えば僕の思考を、歌だと言う人がいた。 これが2000年以前のことなら、僕は違和感を感じていたかもしれない。 でも僕はその言葉に違和も反発も感じなかった。 それは僕自身がそうだと知ったから。 あの瞬間に、僕自身が僕の歌を聞いたから。 あの一つの瞬間、僕の頭は全てに解けていた。 暗く荒れる海の上で、長く長く尾を引く流れ星を見た、あの瞬間、確かに歌は存在し、響いてい たのだ。フランソワーズには届かなかった、歌。その歌は大きすぎて、あの時の僕達には悲しい音 色にしか聞こえなかったけれども、それは大きな、巨きな、厳かな歌で、あの流れ星と僕の頭は巨 大で荘厳な歌の中の確かな一つの旋律だったんだ。 今の僕の気持ちはあの時の気持ちに似ている。 009を、ジョーを魔神像の中に送り込んだ時と同じ、気持ち。 002が、ジェットが飛び立つのを見送った時と同じ、気持ち。 003の、フランソワーズの引き裂かれるような叫びを聞いた時と同じ、気持ち。 そして。 004の、ハインリヒの涙さえでない苦しみの表情を見た時と同じ、気持ち。 僕が、大気圏内に入った二人をテレポートで連れ戻した時にハインリヒが見せた表情を見たとき と、同じ。 僕は正しいことをしてきたつもり。 そして全ては正しかったと、あの歌を聞いて、僕は知った。 でも、同時に僕は解らなくなったのだ。 正しい。正しい。正しい。正しい。正しい。正しい。正しい。正しい。 疑問を差し挟む余地がない程、正しい。 僕には書けない。解らない。 正しいことの何が、僕は気に入らないのだろう。 * ジェットが退院する日がやってきた。彼はポラロイドカメラで撮った皆の写真を見ながら、会話 する。自分におぞましい手術を施した医者にも笑顔で話していた。曇りのない笑顔だ。快晴の太陽 のような笑顔は、実に彼らしい。彼の笑顔を見たのは久しぶりだ。カレンダーはいつの間にか5月 になっている。彼が入院してまる三ヶ月が経っていた。 入口から覗いていると、ジェットは目ざとく僕のすがたを見つけ、手を振った。 頭の包帯も取れた。服は入院着からここへ来た時と同じティーシャツに着替えている。原色の目 がちかちかするようなティーシャツだ。ジェットはまとめた荷物を背もたれにベッドの上に腰掛け ている。 「来いよ、ウィスキー先生。今日こそ写真を撮ってやるからな」 「流石に僕の顔くらいは覚えただろう?」 渋々、近くに寄ると、ジェットは何馬鹿言ってんだよと僕を怒った。 「記念だよ。思い出を残すために撮るんだぜ」 「写真は苦手だよ」 「大丈夫だ。カメラマンの腕がいいからな。ほら、おすましして、ボーイ」 「揶揄うなってば」 僕はベッドの間の通路に立つ。周りの患者や職員が見ている。恥ずかしい。 フラッシュが光った。ガー、と古式ゆかしい音を立てて写真が吐き出される。 「すげえ仏頂面してたな。どれどれ」 ぱたぱたと写真を振ると、少しずつ像が浮き上がってきた。 「は。笑うの我慢してる顔にも見えるな」 「…そんなのが思い出になるのかい?」 「なるさ、イワン」 彼は腕を伸ばすと、僕の頭を抱え込んでぐしゃぐしゃとかき回し、抱き締めた。 「おい、君……、もう」 「ありがとうよ」 職員が立ち去るのが気配で解る。ジェットに抱き締められたまま、僕は溜め息をつく。 「お礼なら、彼らに言うべきだ」 「もう言った」 「ならいいじゃないか」 「お前は特別だ。俺の身を案じてくれたんだろう?」 「…ジェット」 僕は、僕は猛烈に何か言いたくなった。はっきりした言葉は一つも浮かんでいなかったけれども、 何かを言いたくなった。 「ジェット、僕は」 僕は、君の身を案じてなんか。 それどころか447年前、僕は、君と、仲間を。 僕は平気だった。 僕は君たちを宇宙に送り込んでも、涙も、苦しみも見せない。 僕は。 「僕は…」 「イワン、大きくなれよ」 広い手が頭を撫でた。髪の毛が乱れた。ジェットの声は笑っていた。 「大きく育て。健やかに育て。笑顔で育て」 そして身体を離すと、僕の目を見て言った。 「また来るぜ」 窓の外が眩しい。もう正午になる。 僕とジェットは手を繋いで飛行場まで行った。既に着陸していたそれの前にハインリヒが立って いた。 ジェットの手が、僕の手から離れた。またな、とジェットの手が僕の頭を撫でた。僕は子ども扱 いしないでくれと言ったけど、それでもジェットは悪びれず笑っていた。 ハインリヒの前に立つと、ジェットは大きく手を広げた。まるで鳥が翼で抱き締めるように、ジ ェットはハインリヒを抱き締めた。ハインリヒの腕も少し開いて、穏やかにジェットの背中を抱い た。 それから二人は振り返ってこちらに手を振った。 僕はまた、不意に、どうしたらいいか解らなくなった。 飛行機は滑走路から海のほうへ向けて飛び立つ。 それが地から離れる瞬間。 僕は。 「ジェット!」 僕は。 「ハインリヒ!」 僕は手を振った。ジェットを繋いでいた手を振った。力一杯振った。 そして両手を振った。飛んでいってしまった飛行機向けて。 どこまでも吸い込んでしまいそうな青い空に、僕の手が踊った。 青い空に、白い手が踊った。 僕は不意に、この島に来たばかりのジェットが僕を見た途端、笑顔を溢したことを思い出した。 僕は真っ白いシャツとズボンを履いていた。あの日もよく晴れていた。 「おーい!」 僕は声を出した。飛行機は彼方、海の上で白い鳥のようにきらりと光った。 |