「僕は君と…友達になりたいんだ」


          *


「火」
 短い言葉に答えるようにライターが差し出される。安っぽい使い捨てライター。
「ジッポーは?」
 ジョーはタバコに火を吸い付けると、上目遣いに去年の誕生日プレゼントの行方を聞い
た。
「勿体無くてよ」
 答えてジェットは煙を吐く。強い北風にそれはビュン、と吹き飛ばされた。
「使わなきゃ…意味ないだろ」
 肺の深くまで熱い煙を吸い込み、吐息を吐くようにそっとジョーは呟く。
 埠頭のベンチに腰掛け、何を十一月の色気もない寒空の下、タバコを吸っているのか。
 一昨日、摩天楼、彼の住む街にやってきた。
 二晩連続の酒とくだらないお喋りに飽いて、外に何かくいにいこうと言ったのがおそら
くジェット。材料を買ってくれば自分が料理すると言ったのがジョー。じゃあ出るか、と
上着を羽織り、部屋に鍵をかけ出てきたのは二時間前。スーパーは通り過ぎた。コンビニ
エンスストアも通り過ぎた。バスにも乗らず、地下鉄も使わず、ただひたすら歩いてたど
り着いた埠頭の先で、彼らはタバコを吸った。
 ジョーは一口目を旨そうに深く吸ったが、それ以降は不意に表情を曇らせ黙り込んでし
まった。指の先でタバコがちりちりと灰になる。灰になった先から風がそれを飛ばしてゆ
く。灰の飛ばされるたび、熾きが真っ赤に燃え上がった。
 丸みのある指がタバコを弾いた。まだ半分も残ったタバコは地に転がり、風に転がりか
けたが、突然パッと赤い灰を撒き散らして消えた。ジョーの靴がそれを踏みつけていた。
「ジェット」
 ごく普通の声が、ごく普通の音量で、ごく普通に名前を呼んだ。
 呼ばれたジェットが暗い海から目を戻すと、ジョーが見ている。
 目が合う。黙って顔を見合わせた。
 やおらジョーの手が動き、彼は人差し指で自分の下唇を二度叩いた。
 ジェットはゆるく笑い、顔を近づける。
 ジョーの手が伸びて、ジェットの口からタバコを奪った。


 地に落ちたタバコは誰からも踏まれず転がってゆく。


[僕は君と…友達になりたいんだ」
 唇は触れ合わないまま2.54センチの距離を保つ。ジョーはベンチに手をつき、ジェット
は背もたれに手をかけて傾いだ身体を支えていた。彼らは触れ合わない。
「俺たち、仲間だろ」
「そうさ」
 囁くたび、一瞬白い息が舞う。
「好きだぜ」
 翻訳機を介して聞いた。ジョーはゆっくりと瞬きをする。
「ありがとう」
 そう囁いて目を開いたとき、視界の端を白いものが掠めた。
「雪」
 呟く。ジョーはそのまま、ずるずるとジェットにもたれかかった。脱力して頭を相手の
肩にもたせかけながら、物憂そうに視線だけを上げる。ジェットも少し顎を上げ、空を見
た。
「降るぞ」
「もう降ってる」
「積もる」
「……そう?」
 それまで背もたれを掴んでいた腕が、ジョーの脇の下に滑り込んだ。
「ほら」
 促されジョーが立ち上がると、ジェットはジョーの腕を組み、空へ舞い上がった。
 降る雪を下から見上げることはあっても、上から見下ろすことはなかっただろう。
 霞む摩天楼の光、暗闇の中どこまでも沈んでゆく白い雪たち。
 天は何処? 地は?
 風に頬を叩かれ、目を瞑った一瞬で、世界は豹変してしまっている。
 どこから降るのか、どこへ降るのか解らない雪たちに囲まれて、彼らはただ、いる。
 今ここに、確かに君が存在していると、証明できるのは僕だけ。僕の存在を証明できる
のは、君だけ。
 どちらがそう思ったかは分からない。
 お互いに思ったかもしれない。
 そうでなければ雪の間を縫って飛び交う衛星通信のくだらない呟きを聞いたのかもしれ
なかった。






 フライトを終えた彼らは窓から部屋に突っ込んだ。用心深く鍵をかけていたのが災いし
て、ただでさえ汚い部屋にガラスが砕け散った。
 しかし二人はお互いの身体をようやっと支えあい、引きずるようにバスルームに向かい、
そこでジョーは服もちゃんと脱ぎきらないままバスタブに転げ落ちた。
 少し熱すぎるシャワーがぼんやりと天井を仰ぐ頬を打つ。上のボタンの千切れたシャツ
が、ぴたりと皮膚に張り付いた。
 もうもうと立ち上る湯気。甘いようなその匂いをかいで、ジェットはバスルームのドア
にもたれかかり腰を下ろした。首はしっかりと頭を支えず顎がつんと上を向く。タイルの
上に伸ばした片足が、温かいシャワーの飛沫の恩恵を受けた。
「寒くない?」
 ジョーの声は小さかったが、バスルームの壁はそれを反響させ、増幅した。
「気にするな」
 応えるジェットの声は、温かいバスルームと寒い廊下との狭間でエアポケットに吸い込
まれる。
「ありがとう」
 ジョーはため息をつき、たまり始めた湯の中に身体を沈める。
「優しいね」
 ジェットは上を見上げたまま答えた。
「友達だからな」
「……そう?」
 湯の温かさが肌にしみてきた。髪の先からぽたぽたと雫が落ちる。濡れた髪が張り付く。
 ジョーは泣かなかった。
 さっきのように右手を上げ、人差し指で自分の下唇を二度叩いてみた。
 そのまま口に含むと、高い空の冷たさがまだこんな所に残っていた。
 きっとジェットには、指先にも、髪の先にも、残っているのだろう。身体を支えてくれ
た腕にも、空を飛ぶための足にも、2.54センチ先にあった唇にも。
 ジョーは唾液に濡れた指を目の前に持ち上げ、小首を傾げた。
 その指をまた唇に当て、彼はまたぼんやりと天井を仰いだ。
 やがて湯はバスタブを満たし、溢れ出しては入り口に座り込んだ男の片足を優しく濡ら
した。
「ティ・ラ・ミス」
 ジョーの小さな声は翻訳機を介さず、原語のままジェットの頭に届いた。
「ジェット…」
「ここに、いる」
 軋む身体をどうにか動かし、バスタブの縁までたどり着く。
 ジョーの身体は子供のように、溢れる湯に溺れようとしている。
 冷たい腕が、湯の中から彼を救い出し、強く抱きしめた。
 ジョーの革靴が片方、排水溝の所まで押し流された。ジョーはそれを知らなかった。ジ
ェットは見ていた。明日は菓子屋と靴屋に買い物に行こう。二人でジョーに似合う靴を選
ぼう。そして甘いティラミスを買おう。苦手じゃない。二人で食べるなら悪くない。
 横目に眺めながら少しだけ先のことを考えて、やがて彼もそっと目を閉じた。




仏語「私を上へ引き上げて」

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