自分の激しい息遣いと何よりも高まる度外れの快感に、ふと下を見ると固く目を閉じて
堪えるハインリヒがいる。妙な違和感に動きがゆるくなると、灰色の双眸がゆっくりと開
いて、「……ああ、分かったよ」とか、そんな察した感じで笑った。
 キスをして誤魔化した。
「久しぶりだな」
 低く掠れた声が耳元で囁く。
「絶頂の手前で忘れるなんて」
 クソッ、そうだった。舌打ちをすると、ハインリヒが力無く笑う。
「お前は2445年の大戦で…」
「いい、思い出した」
「『思い出した』?」
「訂正、『覚えてる』」
 再び力無い笑顔を、しかも御丁寧に優しそうな笑顔を作ろうとするハインリヒの唇に噛
み付いて、強く抱き締める。しゃにむに動くと、油断した唇から連続した呻きが漏れた。
彼の性器はもう既に役に立たなくなってしまっていたが、それでもこうされると何処の如
何いう神経が働くのか、喘ぎに似た声を出す。
 記憶かもしれない。古い古い記憶。
 既に流れの止まり波風さえ立たなくなった記憶の沼から、その名前を引きずり出す。
「アルベルト……アル……」
 腰を使いながら名前を呼び続ける。そんなものが今のこの記憶を引き留める、なんて、
幻想だ。それでも僅かに残った生身の神経が燃えるように興奮した。
 そうとでもしなければ達せないのが現実だった。
 既に名前を呼んでいるのか、判読不明の獣の叫びのようなものが部屋中に反響する。き
っとこのガランドウのビル一杯に、響いて。空しく響いて。
「あ…あ……」
 詰めていた息を崩れるように吐き出すと、汗ばんだ身体を、人口皮膚の下はすぐに合金
の身体にあずけ、また大きく深呼吸した。喉が震え、息が乱れる。しばらくじっとしてい
ると冷たい手が背と頭を包んだ。
「ジェット」
「……ん?」
「今が何時だか、分かるか」
 重たい瞼をこじ開け顔を上げようとすると、その鼻先、枕元に一枚のメモが留めてある。
横を向くと同じ日付のメモが二枚張ってあった。
「2502年7月4日……はっ、インディペンデンス・デイ」
 嗤い、ハインリヒの首筋に顔を埋める。
 たまにしか会わないので、会えばだいたい必ずオプションのようにセックスをするが、
それにしても今日の動機が思い出せない。
「お前の祖国の独立記念日、何が欲しいと訊いたら、俺が欲しいとお前が言った」
「けっ、悪趣味だな」
「お前のことだ」
「俺か? 少なくとも今の俺じゃない」
 何万、何百万回と聞いたフレーズだ。口癖といってもいい。しかしジェットは毎回新鮮
そうにそう口にする。彼はいつも初めて、そう口に出すのだ。
「でも悪かったな、イイ所で忘れちまって……」
「なんなら俺の顔に書いておこうか。何年何月何日、アルベルト・ハインリヒとセックス中」
 そりゃいいや、と下らなそうに笑うジェットは、かつて一度それを実践したことを覚え
ていない。
 まだ九名が完全に揃っていた頃から、いやギルモア博士の存命中から一番ガタがきてい
たのは002ことジェット・リンクだ。特に致命的とも言える脳の損傷を負ったのは24
45年の第四次世界大戦時だった。
 プロトタイプのそれまた最初期なんだ、これだけ保っただけでも大感謝だな。そんな聞
き分けのいい言葉が出たのは、果たして時間が培ったものだけであろうか。
 海馬に損傷を負った人間は順行性の健忘障害を背負うこととなる。発病以降の記憶を留
めておくことができない。彼は忘れてしまう。周囲はあっと言う間にメモで溢れた。壁に
直に書き留めたものもある。ポケットには常に数枚のポラロイド写真が入っていて、カメ
ラ自体も手放せない。誰かに出会う。写真を撮る。そして書き留める。
 壁に張られた写真は時々更新された。ハインリヒの写真も、もう何千枚、何万枚と撮っ
たのだろう。逆に更新されないまま、壁で色褪せる写真もある。例えば007・グレート・
ブリテン。大戦以降別れてから、彼の行方はようとして知れない。001は中々会う機会
がないので、写真は五歳児程の肖像で止まっている。その他とは定期的に会っているよう
だ。更新された写真の日付に一定のリズムがある。おや、ピュンマの日付が随分昔のもの
のままだ。ええと彼は……そうか、代表議員に。
 視線を滑らせる内、一枚に目が留まった。唯一ポラロイドではない写真。日付は大戦直
前、2439年8月14日。まだ夏に暑さの戻らない夏だった。季節を失ったままの年だ
った。煤煙の降る寒い日だった。朝から巫山戯たように寝た。何百年と一緒にいるのに、
それは片手で数えられるほどの経験だった。シャワーを浴びに起き上がった彼をファイン
ダーに収め、それからまた抱き寄せ腰にキスをして、小さな悲鳴を上げさせたのだった。
 ああ、こんなに覚えている。そう、ジェットが未来の記憶を失う前に、ジョーはこの世
から姿を消したのだ。
 ハインリヒの手が、ジェットの腰の辺りで蠢いた。まだ繋いだままの身体が脈打つ。キ
スを再開しながらまた名前を呼び始める。
「アル……」
 幸い、これを幸いと言うべきか、記憶用人工頭脳は生きていたため、時折重要な記憶を
電極を用い自分の脳をいじって留めさせている。軍病院の手術室で自分の脳みそをいじら
れているのをじっと見つめる様は、かつて身体中に記憶の刺青を施した男と、事のグロさ
を競えば五分五分だろう。
 もう一度ベッドの上でもつれ合って、ようやくジェットはハインリヒから退いた。シー
ツの上に染みが落ちる。かつてピュンマが生を植え付けることができないと嘆いた液体。
ハインリヒは既にその分泌さえできなくなった液体。指先に取ってまじまじと見つめ唇を
つけるのを、ハインリヒが妙な顔をして見ていた。また見たことのある光景だったのかも
しれない。




ブラウザのバックボタンでお戻りください。