風はまだ冷たかった。海から吹き付ける強い風にベランダの窓がビリビリと鳴った。食 堂に人は少なく、島村ジョーは窓際の椅子にもたれて、もう三杯目のコーヒーを手の中で 冷ましていた。頭上からは虚ろに明るい冬の陽が照らす。奥のストーブはここまで効いて はこなかったけれども、十分に暖かかった。空は薄い青で白雲が時折迷い鳥か夢の断片の ように遥か上空を飛ばされていった。 幹の細い常緑樹の林を越して白い砂浜が見える。一昨日から休養に来ている家族の三人 兄弟が手に手に凧を持って、今日も昼食をそこそこに出掛けていった。正午を過ぎた浜は 太陽が照らし風も大きく、凧を上げるにはもってこいだ。疎らな緑の梢の上に赤い凧が二 つ上がっている。末っ子はまだ、上手く上げられないのか。 ジョーは浜へは出掛けなかった。滞在一週間を彼は、この小さな二階建ホテルの中だけ で過ごしている。朝は遅く起き、新聞を読みながら朝食を採る。それからそのまま食堂に 居座って読書。支配人の子供に小遣いを渡して古本屋に買いに行かせた。古典、ミステリ ィ、古典、ミステリィの繰り返し。ひたひたと静かなものが満ちてゆくのを感じる。静け さが日常となる。 昼食は皆と一緒にとる。中でも旅行だという学生たちがジョーの出身と旅の目的を聞き たがる。御同伴のあの紳士、御父様ではないのですか。伯父様? ああ先生ですね、演劇 の先生。成る程、ドイツから。どうりで。彼らはジョーの膝の上に乗るブレヒトの脚本集 を見て勝手にそう判断した。テーブルの端で聞かぬ振りをしていたグレート・ブリテンも 「先生」という言葉がなかなか悪くないらしく、同じように支配人の子供に小遣いをやっ てシェイクスピアを買いに行かせた。『リア王』をやろうぜと、デンマーク語のそれを見 ながら英語で台詞を喋る。その器用性の男の姿がここ数日、消えていた。 ジョーの膝の上には『リア王』。もう読むものがシェイクスピアしか残っていないのだ。 足元には文庫本やハードカバーがアンバランスな塔を形作っている。下から『白痴』『夜 明けのフロスト』『三文オペラ』『レッド・ドラゴン』『愛の妖精』『悪童日記』『月と 六ペンス』『タイムマシン』……、最後のはSFじゃないか。これはベッドの中で読み終 えた。翌朝はいつもより寝坊してしまった。寝坊した枕元にはグレートが立っていた。 ──浜へ出てみないかね。 ──何故。 ジョーは羽布団から手を出すと、枕元の腕時計を取り上げた。九時を過ぎていた。明る い日が大きな窓を光らせる。ジョーは腕時計を持った手で目を覆った。 ──眠い? 問いに肯首で返す。グレートはジョーの手から腕時計を取り上げ、再び枕元に横たえた。 手の内の微かな暖かさがジョーの手にも残って、彼はもう一時間だけ寝坊した。その日か らグレートの姿は消えた。 日の昇るころにはいない。日が暮れるとひょっこり現れる。学生たちと談義をしながら 帰ってきたり、子供たちの凧を持っているときもある。そしてロイヤルミルクティーを飲 み干しては、ほっと一息をつく。ジョーは読みさしの本を膝の上に置いて、疲れた瞼でそ れを眺めた。セーターの上に残っていた日だまりの匂いが、すっと闇に消えてゆく。夜が 来る。 * 雨に濡れた格好のまま、まんじりともしない二人を乗せた深夜の急行列車は、夜明け頃 港町の駅に終着した。床に冷たい水の滲みを作ったコートを再び羽織り、ジョーはグレー トに促されるまま一隻の船に乗り込んだ。二人の他に何人かが駆け足で乗り込むと、すぐ にタラップは上げられ、船は朝靄の中をゆっくりと出港した。 ジョーはしばらくは三等客室に横になっていたが、やがて気分が悪くなり、グレートに 支えられながらデッキ出た。立っていられずベンチに横になると、グレートが膝枕を貸し てくれた。灰色の空はたまにぽっかりと口を開け、誰かの瞳のような澄んだ青が所々のぞ いた。時折吹く突風に波が飛ばされ、飛沫が雨のように降りかかった。重いコートには更 に潮の香が染み込んだ。 入港したときのことをジョーは覚えていない。夢現つの中でグレートに支えられ、再び タクシーに、先の夜のようにタクシーの中で肩をしっかり抱かれていたような気もする。 それとも夢を見ていたのかもしれない。何しろ覚えていない。 目が覚めたのは夕方を迎えようとするホテルの部屋だった。ジョーは首を巡らせ、部屋 の様子を観察した。狭くはない部屋の、隣にはベッドがもう一台。その向こうに作り付け のクローゼット。戸は開いた空っぽのクローゼットの奥にも夕日が射している。白い部屋 は柔らかな橙色に染まっていた。 ジョーは少し寝返りを打った。白い枠を持った大きな窓が目の前にあった。彼は窓の外 を眺めてうとうととした。薄い雲の懸かった、空一面を朱鷺色に染めた夕方だった。日が とっぷりと沈んで星の姿を数えられるようになったころ、グレートが現れた。 ──気分は、どうだい。熱はないかい。 声を出そうとしたが、それは酷く掠れていた。グレートの年の割りにたるみの少ない手 が額に当てられた。 ──…何か食べるかね。 グレートは手にしていた包みを椅子の上に置き、下に声をかけに行った。グレートが持 ってきたのは真新しいシャツとズボン、そして紺色のセーター。 しばらくするとグレートが、パンと温めた牛乳をトレーに乗せた少年を連れて現れた。 少年は支配人の息子だと言って「お客様、お大事に」と礼をした。グレートはドア向こう に消えるその姿に「タック!」と声をかけた。人工的に詰め込まれた脳の機械が、その言 葉をどこのものか勝手に解析する。 ──……デンマーク? ジョーはガラガラと言うことを聞かない喉をどうにかこじ開け尋ねた。グレートは眉尻 を下げ、笑っている。 * 「お前は何をした」 受話器を置いたアルベルト・ハインリヒは数秒の重い沈黙の後、ゆっくりとそう尋ねた。 その時ソファにもたれチャップリンの『モダン・タイムス』を眺めていたジェット・リン クは、ひどく悟ったような気持ちになった。心が重く静まり返った。しかし言葉はすぐに 出ようとしなかった。 するとハインリヒは振り返り、もう一度、こう尋ねた。 「お前は…何をしなかったんだ」 映画はエンディングに差しかかっていた。名曲「スマイル」が中古テレビの小さなスピ ーカーから流れる。ジェットは立ち上がった。そして正面からハインリヒに向かい合い、 その目を真正面から見つめ返した。 呼び出し音が鳴ったときから、この電話はギルモア博士からのものだろうと予想してい た。恐らく自分の居所を聞いているに違いない。昨夜ジョーとの待ち合わせに現れず、一 晩姿をくらました自分の。 「約束を、すっぽかした」 その答えを聞いても、ハインリヒは沈黙していた。何かを言いあぐねているのではない、 怒りの余りに声が出ないのでもない。言われるべき言葉が、言われるべき時を待っていた。 小さな音で奏でられていた曲が止み、DVDプレーヤーの再生がストップした。画面が暗 く沈む。そこに二人の姿が映っている。 「ジョーがホテルに帰っていない」 それは、有り得ることかもしれないと思っていた。ジェットはそのことを予想していた のだった。しかしそんなことを考えていたのは本当に人非人のすることらしく、彼は今そ のしっぺ返しを食らっていた。 思った以上にそれは痛かった。 ジェットは窓の外を見た。まだ雨は止まない。冷たい霙交じりの雨が窓ガラスを叩いて いた。彼は落ち着きなくそちらを二、三度見た。 気づくとハインリヒが跪き、膝の照準を自分に合わせていた。 「出て行け」 一度、それは静かに宣告された。ジェットは窓枠を掴み、それを持ち上げようとしたが 振り返り、ハインリヒを見た。言うべき言葉はない。何も言うべきではない。けれどもそ こにあるのは今のような犠牲を払っても手にいれた、魚と米の夕食と相合い傘とDVDと 涙でぐずりながら潜り込んだベッドという一晩の幸福だった。一晩が幸福であったことへ の感謝と。そして只ひたすらの幸福と、幸福と、幸福と。 ハインリヒ。 「出て行け!」 怒声が響いた。不穏な右手が彼の後を追っていた。パパパッと軽い音と共に木片がガラ ス片が散って、外の冷たい空気がなだれ込んできた。尚も銃弾は、その怒りとは裏腹に小 気味良いリズムでジェットを襲った。 まごうことなき死がすぐ側までやってきていた。足のジェットに急点火し、壊れた窓を 飛び出すと、今度こそ発射されたミサイルがすぐ脇のビルの屋上の看板に命中し、彼の身 体は一瞬火炎の中に包まれた。 炎と熱と爆風の中でジェットは、それでも妙な現実感のなさを感じていた。夢の中を浮 遊しているような、映画で他人事を眺めているような。しかしそれも墜落し始めた身体が 地面に激突するまでのことだった。 それはビルの谷間の狭い路地だった。霙が半分機械の身体を凍らせるかのように降り続 いた。ジェットは指一本動かすことができず、泥水を飲みながら路地の向こうの明かりを 見つめた。闇は静かに彼を包んだ。 * 『リア王』のページに指を挟んだまま、ジョーは浜を眺めている。そこに子らとは違う 小さな影があった。末の子と同じくらいの大きさのそれは動かず、数日前から砂浜に佇ん でいる。その様子を食堂から眺めることができたのは、彼の人より少し良い目の所為だっ た。彼はいずれあの側へ行かなければならないと思っていた。しかし足はゆったりと組ま れたまま床を踏もうとせず、尻も座り心地の良い椅子から離れようとはしないのだった。 同じようなテンポの、同じような日が、同じように穏やかに過ぎゆく。もういい、これだ けで。 一歩一歩丁寧に床を踏む支配人の足音が聞こえてきた。コーヒーを取り替えてくれるの だろう。振り返ったが支配人はその手に何も持ってはいなかった。彼は腰を折り、そっと ジョーに囁きかけた。お電話でございます。 電話。電話だって? ジョーは一瞬、何を言われたのか分からなかった。彼は、このホ テルに滞在する人間以外、他に人間がいることを俄に信じられなかった。誰かがいて、誰 かがこのホテルの自分と話したがっている。誰が? デンマークの田舎、季節外れの海水 浴場に自分がいることを、一体誰が知るのだろう。 ジョーは本の間から手を抜きそっと胸に持っていくと、尋ねた。 ──僕に? 小さな声に、支配人も小さく穏やかに頷く。 彼は誘われるままカウンター脇の電話の前に立った。それがファクシミリのついた最新 型であることに驚く。今、ここは一体何処で…何時? それでも差し出された受話器を手に取り、耳に当てる。思わず日本語が口をつく。 ──もしもし。 ──……009か? ためらうような声が些か臆したようなドイツ語で訪ねくる。頭や心が解する前に、口が 迷わず名前を呼んだ。 ──004、ハインリヒ。 すると向こうで息を飲む声が聞こえ、相手は沈黙してしまった。 苦しげな沈黙がジョーには聞こえた。向こうで、歯を噛み締め受話器を握ったまま床を 睨みつける相手の姿が見えるようだった。声色は自然と作られ、ジョーは優しく微かに笑 みを作るように言った。 ──心配しないで。 返ってきたのは酷く苦しむような呻きだった。俺の所為だと言うのも自惚れで、だから と言って自分に全く責任がないとは、ハインリヒには決して言えない。そこで尚も自分の 心を隠し濃やかな気を遣うジョーはこの上ない苦さを彼に味わわせているのだった。その 呻きに気づいたジョーもまた沈黙した。 カウンターの中ではストーブがシュウシュウと音を立てている。フロントの男は気を利 かせて、そっと事務室に姿を消した。玄関の大きな戸に嵌め込まれたステンドグラスが暖 色に包まれた聖マリアの光を床に落とす。食堂の数人が談笑する声が、静かで少し暖まっ た空気を伝い聞こえた。しかしジョーの胸にはさっきから刺すような痛みが何度も何度も 襲っていた。 ──苦しまないで。 彼は言った。胸の痛みから逃げるように彼は言葉を重ねた。 ──君が好きなお酒を送るよ。美味しい食べ物があると思う。それも送るよ。004。 僕は美味しいものを食べている。心配しないで。お酒を送るよ、きっと。この後支配人に 頼もう。君はあの部屋にいるだろう。西棟だね。僕は元気だよ。とてもいい休暇をもらっ ている。心配しないで…… ──009、聞いてくれ。 ハインリヒの声は、低く、しっかりとジョーの耳に届いた。ジョーは口を噤んだ。 ──002は…俺が撃墜した。 ジョーがその言葉の意味を理解しようと声を出すのを忘れていると、受話器の向こうで 畜生と小さく叱咤するのが聞こえた。俺はどうすればよかった。 ──……004、 ──009! ……俺を、許すな。 息を止める耳元でハインリヒの低く潰れた声が繰り返した。許すな。ジョーは息を止め ていることにさえ気づかなかった。目眩がした。 風で砂が飛ばされ、小さな音を立ててズボンを叩く。ジョーはクリーニングから返って きたばかりのコートを羽織り、初めて浜へ出た。空には光を孕んだ雲が五つ六つ浮かんで いて、太陽は隠れていたけれども、どことなし明るかった。寒さに澄んだ空気を越して小 さな兄弟たちの歓声が聞こえてきた。点景のように見える兄弟たちの、その上空に目を移 すと赤い凧が三つ上がっている。 上の兄がこちらに気づき手を振った。ジョーは微笑もうと試みた。海風に凍える唇がほ んの少し持ち上がり、氷った涙の膜を塞ぐように瞼を伏せ、彼はどうにか笑顔らしきもの を作ったようだった。自信がなかったので会釈で隠した。すれ違い駆けてゆく子らの笑い 声に、何故か胸が締め付けられた。立っていられない。彼は蹌踉めく足で、それでももう 何歩か歩み進めた。 ──許すな。 ジェットは恐らく、まだハインリヒの部屋にいる。むしろハインリヒが連れてきたとい うのが正しいのだろう。自分で撃墜したジェットをハインリヒは捨てられなかったに違い なかった。それでよい。それで正しい。既に帰る場所を失った自分たちに残された場所は 少ない。いくら凶器を向けたとて、まして愛したものを捨てることなど出来まい。 許すなと言われて素直に憎めるならば、それはそれでよい関係を築けたということだろ うが、しかしジョーには無理な話だ。決して嫉妬したくないと考える反面、彼はとても根 の部分でしつこくハインリヒを憎んでいるようでもあった。憎む、という言葉は酷く生々 しく、ジョーは恥ずかしさと申し訳なさを感じ、またそのような感情を抱く自分に反発す る自分の存在も感じていた。彼は苦悶していた。 約束を破ったのは向こうの方じゃないか。そう言うのは容易い。しかし、ジェットが自 分の約束とハインリヒとを秤にかけることをある程度見越して、目の前でチケットを買っ てみせ誘ったことも事実だった。 ベルリンのチケット売り場の熱気と、人込みをかき分け一際長身の赤毛を目印に駆け寄 ったあの熱気と体温が皮膚の表面で発熱するように蘇り、ジョーの足は唐突に止まった。 ふと一瞬で胸を通り過ぎた言葉。あの時は幸福だった。それは無知故に。ジェットの心を まだ知らなかったが故に。だから僕は幸せでしたと。僕はただの間抜けだったのです。 悲しみを言葉にすれば恐らく楽になれるだろう。涙を流せば、もっと。しかし彼の目は、 その奥から乾いてしまっているかのように、涙など気配もないのだった。代わりに彼は、 砂の上に膝をつき、深く項垂れた。 その時、沖の方から明るい日が射した。雲が流れ、沖から青い空を運んでくる。顔を出 した太陽が、真っすぐに白い浜を照らし見下ろしていた。 その冬も終わりの明るい日差しの下に、それは佇んでいた。本来猫足で美しい彫刻の施 された四つの脚を砂に埋まらせ、吹き付ける風と砂にすっかり古びたしまった、それは一 台の手回しオルガンだった。幾つもの巡業を重ねてきたようなあちこちの小さな傷。使い 込まれた真鍮のハンドルが鈍く光る。蓋が歌の始まりを待ち兼ねるようにカタカタと鳴る。 ──分かってる。 ジョーが呟いた。風にかき消えそうな掠れ声で彼は呟いた。 ──分かってるよ、ここには…逃げてきたんだ。 ──責めては、いないさ。 重く静かに響くバリトンは、オルガンの箱を震わすように聞こえた。ジョーは顔を上げ た。浜という小さな日だまりの中に、オルガンは静かに佇む。 ──嬉しいよ、ようやく待ち人来るだ。 真鍮のハンドルが小さく軋んだ。 ──やれやれ、砂を噛んだようだな。この風の強さには難儀するわい。 オルガンは自ら体を震わせると砂を払い落とし、小さな咳払いをした。そうオルガンが 咳払いをしたのだ。 ──さあさお若いの、リクエストをどうぞ。古今東西、どのような歌でも歌ってみせま しょうぞ。 ──……何故。 ──あんたが私の客だからだよ。ゲストは持て成すのが当たり前だ。 ──だから…何故。007。僕はあの夜からずっと君に迷惑をかけっぱなしで……一言 も……何も言わないで、甘えっぱなしで……。 ごめんなさいの一言も、ありがとうという小さな謝意さえ見せていないのに。 ──僕のことなんか…、 ──009。 再び俯いたジョーの方に暖かな手が触れた。乗せられた手の僅かな重みに、少しずつ心 が静まってゆく。それと共に身体を支えていた最後の支えも失ったかのように、ジョーの 身体は前へ倒れた。 頬に砂がつく。が、不快ではない。ただし吹き付ける風は強いので、目を瞑ってしまっ た。閉じた瞼の上に日光の射すのが眩しい。そして暖かい。砂浜に伏せた耳には低くうね る波の音が、そしてもう片方の空を向いた耳からは柔らかなオルガンの音が入り込んでき た。所々音の外れたオルガンは、決して自分の歳の所為ではなく砂を噛んだ所為でこうな ったのだと言い張る。オルガンが拗ねて、わざと高い音を出してみせるのに、ジョーは少 しだけ頬を緩めた。 真鍮のハンドルがひとりでに回転し、ゆっくりと音を奏でる。一音一音、丁寧に歌い上 げるその曲は『さくらさくら』だった。古今東西、の謳い文句は伊達ではなかったらしい。 何度も繰り返すうち、オルガンは調子に乗って歌詞を載せて歌い始めた。 ──よっぽど好きらしいねえ。こんな短い歌だが、いつ歌い終わるんだろうと、歌い始 めてハッとするときがあるんだ。 ──…終わらない歌があると思う? ──あるだろう 迷った様子もなくオルガンは答えた。桜が散り、ハンドルと止まる。春日のような熱を 溜め始めた空気がゆるく彼らを包んだ。オルガンは青年の言葉を待ち、浜辺の端に所在無 さげに立ち尽くした。 ──僕、 ジョーが唐突に口を開いた。 ──好きな……人が… 口ごもるのを、静かな沈黙が続きを促す。ジョーは強く目を瞑り、首を振るような仕草 を見せた。そして躊躇を振り払うように口に出した。 ──好きなんだ、友達、みんな。誰も。……誰も、好きだ。 低めのバリトンがさくらさくらを丁寧に歌ったように、落ち着いたテノールも一言一言 を丁寧に舌の上に載せる。その声がやがて暖気に曖昧なまま溶けてしまうのを恐れるよう に、そしてその言葉が真実であることを切実に望みながら、丁寧に、しっかりと言葉にす る。 しかし午後の陽気はそれら努力も無に帰してしまう。いつの間にか、何を話していたの か、何故ここにいるのか、陽光に溶けて自分が何者であるのかさえ曖昧に溶かしてしまい たくなる。好き、だってさ、何を恥ずかしいこと言ってるんだろうなあ、僕。 いつの間にか鳴り始めた穏やかなオルガンの音に、ジョーはゆっくりと体を仰向け寝そ べった。なりわいの憂いは、後もなく消えゆけば……。消えやしない。消える訳がないじ ゃないか、007。そんな優しい歌は、僕には勿体ないよ……。しかしオルガンは歌い続 ける。悲しみは…雲居に…、後もなく…消え……。 いつの間にオルガンの音は止み、太陽が見ていたのとは反対の方向に随分傾いている。 中天を目指して昇っていたはずだ。今は、岬をめざして? ──疲れたかい? いたわるような声が、ゆっくりと優しくかけられた。 ジョーは眠気に引きずられたまま目をようやく半眼開いて声の主を見上げた。 ──うん。 ──面白くなかったんだろう。 ──何が? ──色々さ。 ──……うん。 砂に書いた文字が波にさらわれるごとに薄くなるように、ジョーの表情もゆるゆると沈 んだ。 ──悲しかった? ──分からない。胸が締め付けられて…凄く痛いのに、涙は出ないんだ。 ──男は自分の為には泣けないもんさ。 ──じゃあ僕は、一人前の男? ジョーが返すのにグレートは穏やかに笑うと、海に視線を投げた。ジョーはその横顔を 見上げ、少し首をずらして空を見上げた。薄い青の端に暖色の紗が一枚、二枚と重なって いる。 ──なあ009 呼ばれてジョーは軽い鼻音で返事を返した。 ──本当の気持ちを聞かせてくれないか ──……本当の? ジョーが眠たげな瞼の下でくるくる悩んでいるのが、背中越しに感じられた。それでも グレートは待つつもりだった。浜辺は夕刻というには早く、海はまだまだ青く、人の姿も ちらほらとある。待ち日和さ。 飽きることのない波の音、時折頭上を掠める鳥の声。時折、子供らの嬌声。 ──……うん。今度。今度ね。 幾分物憂そうなポーズを取りながら、ジョーがうなずいた。 ──そうか。 グレートもゆったり返す。そして立ち上がり、尻の砂を払った。 ──さあ、そろそろ行こうや。 三人の子供の軽やかな足音が二人の耳に届いた。小父さん、一緒に帰ろうと賑やかに呼 ばれ、ジョーもようやく身体を起こした。夕焼けの中で彼はまた、軽い目眩を感じた。 * 小さな音に眠りの底から引き起こされる。最初に思ったのはグレートの鼾だった。しか し、今聞こえてくるのはもっと軽い、鈴のような音。ふと脳内を直接撫でるイメージにジ ョーは目を開いた。 目に飛び込んできたのは真っ暗な天井。窓の外もまだ夜明けには遠い。しかし頭の中は 薄荷でも飲んだかのようにすっきりしていた。そしてさっきから小さく、しかし確かに自 分に訴えるように鳴り続けている音。 ──電話……。 ジョーは小さく呟いた。夜の空気の中で波の音も風の音も、建物の軋む音も遠く、小さ く鈴を転がすような電話のベルだけが脳内に語りかける。 ──…出るのか? 眠りから覚めたばかりだからだろうか、嗄れたグレート声が尋ねた。 ジョーは天井を見つめたまま考えた。カーテンを閉めなかった窓から差す月光が照り返 して、羽目板の模様をぼんやりと浮き上がらせる。 軋む階段を降りて、踊り場からフロントを見下ろす。玄関からは月光が差し、嵌め込ま れたステンドグラスを浮かび上がらせる。瞼を閉じ、祈りを捧げる聖マリア像の絵は、床 の上で薄い水色の光に拡散する。カウンターの上では、暗闇に沈む電話がボタンを光らせ、 呼んでいる。その光を目指し、階段を降りる。 ──009…? ベルは小さな音で鳴り続けている。それは不思議なことに電話を目の前にした今でも小 さな音でしかなかったが、しかしこの耳にははっきりと聞こえている。そのベルを聞きな がら電話の前で暫し佇む。腕が重い。ゆっくりと持ち上げ、手のひらを受話器の上に置く。 指を添わせ、少しだけ力を入れる。まだ持ち上がってはいない。ベルの振動が指先を通し て全身に伝わった。呼んでいる。呼ばれている。 ──009? 取り上げ、そっと耳に押し当てる。 ──もしもし……、 声は機械の中で反響して、その背後には手から砂を零すような静かなノイズが流れてい る。もう一度繰り返す。 ──もしもし、 ──009、起きてるか? ジョーははっと目を開けた。隣のベッドではグレートが半身を起こし、こちらを見つめ ていた。薄ぼんやりと木目を浮き上がらせる天井。波の音。微かな潮の香。透き間を縫う ように響く小さなベルの音。 ──どうするね。 ──………眠たくて、 目を伏せて答えるジョーを見て、グレートもまた枕の上に頭を下ろした。しばらくベッ ドに潜り込む衣擦れの音がしたが、すぐにそれは溜め息と落ち着いた寝息に変わった。ジ ョーはそれを聞きながら、うとうとと天井を見つめた。 ──009……、 ──…何? ジョーは振り向かぬまま応えた。しかし追う言葉はない。 ふと喉の奥が震えた。皮膚一枚を隔てたところまで来た、とても近しい予感。 ──ゼロゼロ、ナイン。 彼は応えなかった。応える術を持たなかったのではない。ただもう、うんざりと言えば うんざりで、眠いと言えば眠い、それだけのことだった。それは昼間のオルガン程ではな かったが、ベルの音も、呼ぶ声も、確実にジョーを深い眠りに誘って、それら自身から遠 ざけた。さよなら。僕、もう眠ります。おやすみなさい。また…明日? * 巻かれた包帯も痛々しく、長く伸びた赤毛も一部焦がしてしまった彼は、電話ボックス の壁に背を打ち付け、自分で引き起こしたその痛みに呻いた。 呼び続ける、声。一瞬だけ繋がった脳波。 右手がしっかりと受話器を握り締めた。受話器を、彼は縋り付くように握り締めた。 |