ウェスト・ウイングを目指して歩く街路の空は灰色に静まり返り、車さえそのがさつな吐
息を飲み込んでいる感じで、人々のどこか漠然とした無音を孕んだ靴音がレンガの隙間さえ
埋めるように満ちる。
 屋台の庇の下にぶら下がったラジオが言うには、本日の天気曇り、降水確率四十パーセン
トと何とも中途半端な予報で、ちょうどそこで新聞を一部買った男が、早く読み終えてそれ
を雨よけにするべきか、それとも傘を新たに買うべきかで悩んでいた。
 このような時、古い格言は我々の揺れる決意を一方に後押ししてくれて、曰く、転ばぬ先
の杖だとか。
 そう思って飛び込んだコンビニエンスストアに傘はなく、無情にも雨は降り出した。午後
の針は五時へ向けて足早に駆け出す。古い町の片隅でガラス張りの店の中に足止めされた男、
ジェット・リンクは自らも新聞を買うべきかを悩んだ。
 観光ガイドマップに沿ってバスを降りたらば、次は通りの名を確認しながら目指す二棟造
りのアパートへ。ウェスト・ウイング(西棟)がアルベルト・ハインリヒの住居となってい
る。堪らず、何度か海を渡って会いに出掛けたとき、四階のその部屋の窓はいつも開いてい
た。夜風にカーテンが翻り、その向こうには佇み耳をすます彼の姿が見えた。次の瞬間、思
わず抱き着いたことを、どうか責めないでほしい。待っていてくれたことが、こんなに喜び
をもたらすとは思わなかったのだ。
 そのウェスト・ウイングは本来、今日の午後の目的地ではなく、しかしそこまで考えてジ
ェットは心の中で口籠もるのだ。きっと今頃、ジョーは約束の場所で待っている。待ち合わ
せまでまだ二十分もあるのだが、きっと待っているに違いない。
 チケット二枚。ゆっくりとお国自慢のビールと夕食をいただいてから行こうよ、劇場へ。
十カ所もあるんだってね、知らなかったよ。この映画をやるのは、ええと、ほら、ここに来
る途中に見ただろう? 建物があったじゃないか、シンボルマークをプリントした垂れ幕が
かけられていた。あの熊のさ。
 と、前売り券売り場の人込みを脱したジョーは珍しく早口でまくしたてたのだった。チケ
ット二枚。壁に大きく貼られた上演予定表に一人の係員が近づき、券の売り切れた映画の上
に大きなバツ印をつけた。
 あのタイトルは何だっただろうか。ジェットはマガジンラックの中で既に何十人に立ち読
みされたであろう、よれた映画雑誌を手に取った。特集記事はもちろん、かつて東西の国境
であったこの町の祭典だ。異国の文字と文法を追っていくうち、何十年も前に束縛された中
で読んだ本のことを思い出した。それを快く貸してくれた彼の住処まで、あと少しというの
に。
 約束は守る。ただ、ちょっと寄り道するだけさ。同じ空間にいるのだ、会わずにはいられ
ない。もう先までの海を隔てた日々とは違う。時差も距離も関係ない。彼らがこの町ベルリ
ンに滞在するのは、たったの十二日間だけなのだ。今日は何曜日だったっけ。木曜日? 日
程のちょうど半分だ。もうそんなに経っちまったのか! これまで何度会った? 初日には
空港まで迎えに来てくれた。それから?食事をしたよ。一昨日は部屋に泊まった。それから?
何てこった、丸二十四時間以上顔を見ていないぞ。声だって聞いてない。勿論、約束は忘れ
た訳じゃないんだ。ただ、ちょっと会いたいだけだ。なのに雨だって?畜生。関係ねえや!
 雑誌を投げるようにラックに返し、ビヤ樽のような胴をした女の店員の訝しげな視線を背
に店を飛び出そうとした、ところを腕を掴まれた。
「急ぐのか?」
 まさか、という言葉を飲み込んで、まずは耳に急くように駆け込んできたそこ声を吟味す
る。低い声。それは歌歌いのバリトンやテノールのように区別するものではなくて、川の底
から拾ってきた冷たい石を白い指の関節でノックするような、博物館の奥で静かに眠り続け
る古い書物の独り言を聞くような声だ。それは耳に入る前から、肌に触れただけでジェット
に一種の歓喜をもたらした。分かってる。分かってるって、焦らす必要なんかないよな。彼
は存外、上腕を強く掴んでくる黒い手袋の手を握り返し、抱き締めたいのを堪え、満面の笑
みで一言強く言ってのけた。
「まさか!」
 左手に畳んだばかりの濡れた傘を持ったアルベルト・ハインリヒは、突然この若いアメリ
カ人に溢れた笑みに面食らったようだったが、ちょっと肩をすくめ苦笑してみせた。
 ガラスの壁の向こうで太った女店員は、先程の客がドアの前でもう一人の男と笑いながら
話すのを見た。彼らはもう一度店に戻るかと思いきや、黒い傘の下で狭そうに肩をぶつけ合
って通りの人波に紛れていった。彼女はため息をついたが、レジに列なす客に今見たものも
すぐ忘れてしまった。


 ウエスト・ウイングの銅板の表札の下には、暗い口のような狭い入り口があった。飲み込
まれてそのまま何かを無くすのではないかという予感は、思いの外早く具現化され、四階分
の階段を段々ペースを速めて上りきって、ドアを閉めた瞬間キスをしたのは、どっちがどっ
ちだったのやら。ハインリヒが後ろ手に閉めたドアの鍵を懸命にかけようとしていて、ジェ
ットはそれをうっすら目を開けて見ながら唇を離し、バーカ、と一言言ってやった、愛をこ
めて。相手が怒る前に抱き締めて、ロックを二つ厳重にかける。鍵を下ろした音が静かな部
屋にやけに大きく響き、続いてハインリヒが鼻からため息をついたのがやけにおかしくて、
二人ドアにもたれ掛かったまましばらく声を出して笑った。
 ウエスト・ウイング四階の端。一昨日、豆スープと腸詰の夕食をとった時には赤い日を透
かしていた窓も、今は老父の沈黙のように黙して雨の向こうの景色を映さない。灰色の何か
が部屋を覆ってしまったようで、二人にはやがて雨音も聞こえなくなり、ただ満たされた幸
福だけを黙って分かち合った。ジェットの腕を離れ、床に落ちた腕時計が小休止をしている
のは午後七時の文字盤の上。すきっ腹の上を冷たい手が押した。それよりも声が聞きたかっ
たから鼻をつまんでやると、ばか、と返された。それでいい。俺はばかだよ。もう一度、上
にのしかかろうとすると、拍子に腹が鳴り、更に笑われた。念願の声が聞けたはいいが、腑
に落ちない。憮然としてベッドを出ると、ハインリヒはまだ毛布に包まって笑っていた。
 冷蔵庫の野菜室には何故かジャガイモが山ほど詰まっていて、理由を尋ねると、今では後
悔している、と返事が返ってきた。飽きたのだそうだ。そうでなくともジェットには、この
ゴツゴツとした塊を上手く皮を剥いて料理する自信がない。冷凍庫には魚が入っていた。名
前は知らない。するとハインリヒが母国語でその名前を呼んで、フライが食べたいと言い出
した。もちろんこれに関しても自信はない。むしろさっきよりもないと言っていい。油を大
量に使った料理で成功した経験は皆無だ。素直にそう告白すると、ハインリヒは渋々毛布か
ら抜け出て、床に落ちた服を拾った。
 テーブルの上に魚と米の食事を用意してテレビをつけると、各局とも、様々な国からやっ
てきた女優や映画監督の映像とインタヴューに血心を注いでいる。
「行こうとか思わねえの?」
「さあな。今でも外国の出来事みたいなんだ」
 答えるハインリヒはそれよりも皿の上の魚が冷めてしまうことの方を気にかけているふり
をしている。
「俺、あんたと行きたかったかも」
「そんなことを言うな。009が泣くぞ」
「あいつを勝手に泣き虫にするなよ」
「泣かないか?」
「男の子は簡単に泣かねえの」
「本当に?」
 声色は茶化していたが、言葉は真からの疑問を投げかけていた。本当に? 心を奪い去る
嵐の前には男も女も、金も力も無関係に皆、無力なのに。本当に、彼だけは泣かないだろう
か。
「お前は泣かないか?」
「何で俺が」
「泣かないのか?」
「俺はもっと強い男の子、なんで」
 答えた笑顔の下で考える。どうだろう。でも一生に一度くらいはお前のために泣いてみた
いとか、感傷的になると(なるときもあるぜ、たまにはな)思うこともあるよ。そう、この
四十年で一度くらいはそんなこと考えたはずさ。
「あんたは、泣かないのかな?」
 ハインリヒは口の中の魚を咀嚼していた。フライはジェットが手伝ったにも関わらず上出
来でハインリヒの舌を楽しませ得るものだったのだが、彼はそれを飲み込んで答えなければ
ならなかった。
「俺は大人の男、なので」
 この祭りは隔たれた世界のものだった。壁の向こうで上演されていた映画を、彼は一本た
りとも観たことはなかった。しかしそれが不幸であることとは、決して直結しない。彼には
ベルリンっ子の誇りもあったし、古い流行歌を口ずさむ恋人もいたし、ピアノを弾くことも
できた。肝心のピアノは彼の部屋にはなかったけれど、だからといってそれが不幸だなどと
言うはずがない。
 映画くらい。
 口に運んだ魚が冷たくなってしまっていたので、はっとした。ジェットが皿の上を綺麗に
平らげ、頬杖をついてこちらを見つめている。テレビは既に他の番組が始まっていた。ハイ
ンリヒはすっかり冷めてしまった魚を咀嚼した。
「映画くらい、観たっていいじゃねえか」
 頬杖をついたジェットが何の気なさそうに呟いた。
「ああ、いいだろうさ。どっちだって構いやしない」
 するとジェットは身を捩らせてテレビを振り返ったが、その周辺に何の機器もないことを
知って、呆れたように冷めた料理を食べる男を見つめ直した。
「あんた、ビデオ持ってねえの?」
「見てのとおりだ」
「信じらんねえ。これであんた都会っ子気取るのかよ」
「そう言うお前は持ってるのか?」
「持ってねえ」
 ニューヨーカーはやけに堂々と答えた。ベルリンっ子は肩をすくめて残った米をかき込み
にかかる。小さな音で喋るテレビは、カサコソと何か内緒話でもしているかのようだった。
やがてそれを覆うように雨音が蘇り、ハインリヒはジェットの頭を越して窓を見た。深い紺
に沈む窓を雨が打つ。
 食後の皿を手際よくシンクに放りこみジェットは上着を引っかけた。
「早くしろよ」
「何をだ」
 言葉が足りなさすぎる。我が儘勝手もいい加減にしやがれと思いつつ、手は皮のコートを
掴み自然と袖を通している。
「買い物。電気屋はまだ開いてるかな」
「嫌な予感がするんだが」
「折角だからDVD買おうぜ。高画質、高音質が売りだろ。やっぱ映画館の迫力をな、」
「ああ、ああ、追求しようじゃないか」
 ハインリヒは両手を挙げてみせた。けれどもジェットにはとうに掲げられた白旗が見えて
いたのかもしれない。当然のように、ジェットの腕は肩を抱いてくる。
 玄関を出たハインリヒはふと笑い、一言付け加えた。
「それと、お前の傘だ」
 すると、俺はこういうのも悪くないと思うけど?と素知らぬふりをする男の肩で雨粒が跳
ねる。


          *


「お若いの、何をしておいでで?」
 彼は街灯にもたれ、雨の中に項垂れていた。
 雨は夜の街を満たす。闇色の冷たい雨は人をして温もりを求めさせ、明かりの灯る部屋に
閉じ込める。
 では、戸外に閉め出された者は。
 彼は雨の中に閉じ込められ、どうすることも適わないのだった。彼は立ち尽くす以外に術
を持たなかった。重たく雨に濡れたコートが、黒く、そのまま夜の中へ彼を沈めてしまうか
のように双肩にかかる。頭上の小さな明かりに照らされた顔は青白く、半眼閉じた瞳には暗
い影がさしている。
 その時、グレート・ブリテンの胸を去来したのは、ほんの少しの感傷、ほんの少しの同情
だった。感傷はその打ちひしがれた姿に、そして同情はその姿を容赦なく打つ雨に因った。
壮年の英国紳士はそっと傘を差しかけ、もう一度尋ねた。
「どうした、009。映画の約束はどうしたんだね?」
 島村ジョーは、その声で初めて我に返ったようだった。
 だが、その我とて、一体いくらの生気を持ち得たろう。重さに耐え兼ねたような首がぎこ
ちなく上を向き、本来優しい栗色に光っていたはずの髪の先からは重たそうに雨の滴が落ち
た。
「007…?」
 掠れた声は、辛うじてそう尋ねたようだった。
「しっかりしてくれや。映画の約束があるからと、夕方にはホテルを出たじゃないか。夕飯
は食ったのかい。002は?」
 するとジョーは何か自分に落ち度があるかのように下を向いた。察したグレートは、おい
おい、と呟きながら空いた手で目を覆った。
「まさか、009、奴はまだ来ないんだとか言うんじゃあるまいな」
 返事はない。グレートはいよいよ呆れる。
「そしてこの雨の中、お前さん、律義に……、いやいやまさか、だって約束は五時だったろ
う。もう四時間は軽く過ぎちまって……」
 そこまで言いかけ、グレートは口を噤んだ。傘の中でもジョーは変わらず雨の中に沈んで
いるようだった。四時間も雨の中を佇んでいるなど、特にこの祭りの時期であるから警察に
職務質問されそうだが、しかしジョーはまるでそう、映画のように、その場面に溶け込み違
和感なく立ち続けているのだった。長い長いワンシーンだ。
 やれやれ、002も罪なことをしよるわい。ジョーも馬鹿のように律義すぎるが、だから
といって002のしたこの仕打ちは許されるものではない。チケットだって苦労して手に入
れたものだと聞いたのに。グレートは懐中時計を一瞥し、ピチンと蓋を閉めた。
「まだ間に合うだろう」
「もう…いいんだ、別に間に合うとか……」
 雨音にかき消されそうな小さな呟きを無視し、グレートは車道に向かって手を挙げ、すぐ
さま近寄ってきたタクシーの中にジョーの身体を押し込んだ。続けざまに自分も乗り込み、
濡れ鼠が乗り込んだことに顔を渋くしている運転手に紙幣を余分に握らせ、「劇場へ行って
くれ」と流暢なドイツ語で言った。
「劇場ったって、幾つもあります。どこですかね」
「ええ、待ってくれ」
 グレートは既にジョーの返事は期待せず、相手のコートの内ポケットを探るとチケットを
取り出して名前を読み上げた。
「十五分に開演だ。間に合うかね」
「まあ間に合わないこともないですが、ベルリナーレ・パラストがそんな濡れ鼠みたいなお
客さんを入れますかね」
 運転手の返事を半ば聞き流し、グレートはジョーのコートを脱がせた。コートは水が滴る
ほど濡れそぼっているが、中はそれ程でもない。少し安心した。
 二人が劇場のロビーに立った時、開演のベルが鳴った。そこここにできた人だまりを抜け、
グレートは係員を捕まえるとようやく劇場内に案内された。ジョーはさっきからどうにか足
は動かしているものの、時折よろめき、グレートに肩を借りなければならなかった。
 劇場は広く、暗く、体温のような静けさを覆うようにスピーカーから静かな音楽が流れて
いた。
 後方の右隅の席が空いていた。係員の誘導でジョーをそこに座らせると、グレートは隣の
通路に壁を背にして立った。腕の中でジョーの濡れた重いコートがしんしんと冷たさを染み
させた。
 主役の女が姿を現しても、ジョーは顔を上げなかった。


          *


「『大脱走』『荒野の七人』……『インディペンデンス・デイ』はテレビでやってたの、観
た」
「お前の好みで選ぶな。金を出すのは俺だ」
「名作を薦めてるんだよ。『市民ケーン』、この前新聞に載ってたぜ、今世紀の映画ベスト
ワンだってよ」
「新聞なんか読むのか?」
「いくら俺の性格がこうだって言ってもさ、あんたまでそんな偏見を抱くことはないんじゃ
ねえか」
「まあ、いい。じゃあ『市民ケーン』、と」


          *


 フィールグッド。
 劇場内にその声が響いたとき、グレートは初めてジョーの目に光が戻ったのを見た。
 ジョーの目は唐突に目覚めたときのようにきょろきょろと動き、ようやくスクリーンの上
に留まると、次は痛みに耐えるように細められた。
 グレートの目には見えた。ジョーが耳まで赤くし、恥じるように顔を赤くしているのを。
そして口元を強く押さえた手を。まるで自分が声を出してしまったのを慌てて押さえたかの
ように、強く口を塞いだ手。
『フィールグッド』
 スクリーンの中で黒い肌の女優が苦しそうに繰り返す。
『フィールグッド』
 切なげに繰り返す。
『フィールグッド』
 その声が聞こえる度にジョーは、自らが痛みを受けているかのように表情を強ばらせるの
だった。
『フィールグッド』
 感じさせて。気持ち良くさせて。いい気持ちにさせて。
 まるで痛みを分け合うような身体。
 ジョーは両手で顔を覆い、俯いていた。


          *


 隣で鼻をすすり上げる音が聞こえ、ハインリヒはティッシュを箱ごと渡した。広い手が二、
三枚連続で紙を取り上げ、強く鼻をかんだ。ハインリヒは小声で呟く。
「先に泣かれると、逆にこっちは冷めるもんだな」
「え?」
「何でもない。心置きなく泣け」
 買ったばかりのDVDを接続した中古のテレビの狭いブラウン管の中、盲目の女を演じる
歌姫が最後の歌を、いや最後から二番目の歌を歌い始めた。
「……っ」
 不意に喉の奥で息が詰まった。鼻がツンとし、目の裏を久しく感じなかった熱いものが刺
すのを感じた。
 ジェットがしゃっくりをして、ティッシュを握り締めた手で鼻を押さえている。
 ハインリヒの喉の奥が低く鳴った。彼はジェットの手からティッシュの箱を奪うと、自分
も二、三枚取り上げ、鼻の下に押し付けた。
 お互い嗚咽の零れるのを堪えながら、手だけがティッシュの取り合いを続けた。


          *


 エンディングロールが流れきる前にジョーは席を立ち、劇場を飛び出した。追いかけるグ
レートは入り口で振り返り、初めてそのタイトルを見た。『Monster's ball』。
 化け物どもの…夜会、か。随分自虐的なタイトルのものを選んだものだ。そして中身を見
た今では何をか言わんや。
 ジョーはさほど遠くまで行っていた訳ではなかった。大通りを跨ぐ横断歩道の前に佇み、
途方に暮れているように見えた。
「009…」
 がっくりと落ちた肩に手を置こうとして、グレートは思い止どまった。その肩は小刻みに
震えていた。頬を幾つもの冷たい滴が伝って落ちた。
 グレートはコートを抱え直し、未だ盛んな車の流れに手を挙げた。すぐに一台のタクシー
が二人の前に止まった。後部座席の扉を開き、グレートはジョーを促した。のろのろと促さ
れるままにジョーはタクシーに乗り込み、シートに深くもたれた。グレートは低く「駅へ」
と指示した。
 雨の中をタクシーは飛ぶように走る。小さく震え続ける肩をグレートは抱いた。父が嵐の
中、子を守ろうかとするように、冷たく冷えた肩を抱き、じっと闇に包まれた向こうを見据
えた。
 街の、酒場の、アパートの光を追い越し、タクシーは駅へひた走った。それはあのウエス
ト・ウイングも通り過ぎた。しかし閉じた通信回路は階上の堪えるようなすすり泣きを拾う
ことなく通り過ぎていった。
 追い抜いたビルの上で、秒針が、仲良く寄り添った長針と短針を追い越した。
 グレートの肩に濡れた身体の冷たさがしんしんと染み渡った。




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