いつもよりも黒ずんだ灰燼が音もなく上空から降りしきる。雪と混じり街を灰色で覆う
冬のそれと違い、寒い夏のそれは風に吹かれれば更に小さな砂埃へと簡単に崩れ、窓枠や
スライディングドアの溝に溜まる。しかし今回はもう一週間も降り続いていて、それはビ
ルの屋根や道路にも積もり、装甲車の通った跡がうっすらとついていた。ジョーはすすめ
られた椅子には座らず、窓辺によって、厚く低く垂れ込めた暗雲と、不気味なまでに静ま
りかえる街を見下ろしていた。人の存在を想起させる明かりは見当たらず、どのビルの窓
も厚く遮光シートとカーテンで覆われていた。
 夜ほどに暗くはない、しかし明かりなしでは新聞の文字を読むのも難しい、ひどく憂鬱
な暗さ。窓には、そんな世界を見つめる自分の姿が薄く映っている。
「009」
 そう彼を呼ぶ男の姿も、窓には映っていた。高い鼻梁の下で口をへの字に曲げている。
「一応コーヒーはいれたけどよ、どうせすぐに飲むだろう? グラスが別にいるか? あ
とこれな、賞味期限切れ寸前の非常食、山程見つかったんだ。この前、収納に入れっぱな
しだったのを忘れててさ。悪いが、つきあってもらうぜ」
「君となら、002。何だって」
 ジョーはようやく窓から離れ、ジェットが食べ物と酒を用意したテーブルに近づいた。
並んでいる酒は今日び珍しい程量が多く、しかし決して軍から横流しされたものではない。
正規に酒屋から頂いたもので、ちゃんと金も払ってある。ありったけを買い占めてきたの
で種類はバラバラ。異様に値段の高かったウィスキーとワインが二本ずつ。ビールが缶と
ビンで、カクテル類と合わせて袋一杯あり、銘柄が色々あった。ジェットが非常食を皿に
あけテーブルに並べる傍らで、ジョーは袋から酒を取り出して皿の間や床に置いたりした。
「氷は?」
「見てのとおりだ。配給された電気はほとんど暖房に費やされてる。この寒い御時世にわ
ざわざ物を冷やそうなんて奴がどこにいるよ」
「つまり冷蔵庫はまだ壊れたままなんだろ」
「違う。必要ないんだ」
 水はと訊くと、ジェットはもう一度収納を探しにキッチンに引っ込んでいったが、やが
て声だけ寄越した。
「四年前に賞味期限の切れた水はどうだと思う?」
「僕らの身体を信じるか、それともおとなしくストレートでいくか、さ」
 どっちにしろ身体によくねえな、とボヤきながら戻ってきたジェットが二リットルのミ
ネラルウォーターをソファの足元に置いた。
「死にたくなったら、飲むか」
「そうしよう」
 そこでようやく椅子に腰を下ろし、一息ついた。ジョーは革張りの背もたれに深く身を
沈めながらため息をついた。
「コーヒー、冷めるから飲んでくれよ」
 億劫そうにマグに手を伸ばしながらジェットが言う。返事をしながら自分もマグを手に
取ったジョーは、ふとそれに口をつけるのをやめてジェットに尋ねた。
「ところでこのコーヒーは、どの水でいれたんだい」
 ジェットは口に含んだコーヒーをゴクリと飲み干してから、慌ててキッチンに飛んでい
った。やがて彼は空のペットボトルを手に、行った速度の三倍の遅さで帰ってきた。ほれ、
と投げて寄越すそれのラベルを見てみると、さっきジェットが疑問を呈した水と同じ年が
賞味期限の欄に記載されていた。
 崩れるようにソファに腰を下ろすジェットに、ジョーは黒ビールの蓋を開けてビンごと
手渡した。自分も別の銘柄のビールを手に、缶のプルトップを開ける。
「グラスは?」
「キッチンに…あったかな。シンクの横に伏せて……。持ってくるか?」
「使いたくなったら取りにいくよ」
 そして缶を差し出す。ジェットもビンを差し出し、互いにその口をぶつけ合った。
 口の中で小さくトースト、と呟く。それから一気にぐいっとあおり、互いにその半分ほ
どを減らした。アルコールを摂取したことで少しは先程の口中の嫌悪感を忘れたのか、ジ
ェットはジョーに苦笑を見せながら二口目をあおった。鋭角な顎を上向け、露になった喉
仏が上下する。実に旨そうにビールを飲み干すジェットを横目に、ジョーは乾燥した海草
サラダをつまみながら残りに口をつけた。



 夜が来て、上空の闇を吸った雲がいよいよ地上を暗く沈める。しかし彼らは明かりも点
けずに黙々と酒を飲んでいた。
「夜になれば…少しは街らしくなるんだ」
 後ろを振り向き、ジョーはどんよりと瞼を重くして窓の外を見つめる。
「明かりが漏れてる。下の階が随分明るいね」
「兵隊が飲みにくるからさ」
 ジェットの住む街は、今一時休戦している大陸の北の戦地の中継点で、さまざまな国の
兵士たちが街をうろついていた。昼の行動は厳しく制限されているらしく、彼らはこうし
て夜陰に紛れて、かすかな光をドアの隙間から漏らす酒場へと足を運ぶのだ。
「この前、ギルモア博士のお墓に行って……」
 ジョーが窓から目を離さないまま言う。
「報告することがないんだ。あれから一世紀、まだまだ戦争は続いてます、だなんて」
「黙って帰ってきたのか」
「…………」
 答えず、ジョーは椅子に座り直した。手元のカクテルをあおろうとするが、ビンは既に
空になっている。ジョーはテーブルに手をついて体を乗り出し、ジェットの手からウィス
キーを奪い、あおった。
「……う、わ」
 一口で口を離し、ラベルを確認する。
「いきなり飲むなよ。十五年モノだ、味わって飲め」
 説教臭い口調で言いながら、ジェットはウィスキーを奪い返した。ジョーは未練がまし
くそれを追いかけたが、ジェットに押し返され、跳ねるように椅子に戻った。
 テーブルの上の皿はおおよそ空になっていた。干し肉等は早々に売れてしまい、サラダ
はパンに挟んで食べてしまった。後は味気のないスナックが大きめの袋に半分残っている
だけだ。ジェットがそれを全部皿の上にあけてしまい、空になった袋を丸めてゴミ箱に放
った。しかし袋は空中で再び元の形に広がって、ゴミ箱に到達する遥か手前でヒラヒラと
床の上に落ちた。
 斜め向かいの席ではジョーがワインを開けていた。白ワイン、ラベルには『INPORTED』
の文字。値段の分はあったようだ。しかしジョーは感慨もなく、それを一気にあおった。
「ラッパ飲みなんて、お前らしくねえよなあ」
「へえ、僕のこと随分知ってるみたいな言い方じゃないか」
「百年の付き合いじゃねえか」
「九十八年だよ、ちょうど。それに君は004の方が……」
 ふとジョーが口を噤んだ。そして暗がりの中で真っすぐにジェットの双眸を見据えた。
「百年って言ったって、僕らは、始終一緒にいた訳じゃなかったじゃないか」
 静かな口調でそう言って、ジョーは更に一口あおった。それからスナックをつまみ、味
気のない乾いた炭水化物の塊を口に詰め込んではワインで胃の中に流し込んだ。
 それまで途切れながらも細々と続いていた会話が、ふつりと止んでしまった。二人は何
か食べることが重要なように、黙々とスナックを口に運び、咀嚼した。それは本当に味が
なく、噛んでも噛んでも塩気も甘みも生まれないのだった。
 大皿の真ん中に一つだけ残ったスナックに、二人は同時に手を出した。そして皿の上で、
ふとその手を止めた。
「002」
 ジョーは皿の上を見つめていた。決してジェットの方は見ず、彼は尋ねた。
「004とは、いつからそうだったんだ?」
 ジェットも皿の上のスナックを見つめていた。手が一瞬、躊躇しかけたが、やはり皿の
上にとどまったまま。彼は静かに答えた。
「ずっと」
「それは……ずーっと?」
「ずっと」
 強く、答えた。
 揺るぎない言葉だった。
 ジョーの手はマネキンのように動かない。
「好きなんだ?」
「多分」
「多分って何だよ」
「もう、当たり前すぎて…」
「キスも、当たり前?」
「ああ」
「セックスも?」
「時々」
「…どうして? 側には女がいただろう? 003が」
「妹に変な気を起こすなんてのは、人間じゃないぜ」
「…はっ」
 ジョーの手がスナックを掴んだ。彼は手の中でスナックを弄びながら言った。
「どうしてそうなるんだ。分からないや。男で、それにあの身体……」
 刹那、凶暴な気配がジョーを掠めた。咄嗟に頭を庇った手に、投げられたウィスキーの
ビンがぶつかった。それはジョーの上に中身を撒き散らしながら鈍い音をたてて床に落ち、
そこでまた新たな水たまりを作った。
「…好きなんだ」
 ジョーがゆっくり手を退かしながら、確信したように呟いた。
「どうして好きになんか……」
「理由なんかねえよ」
「ただ欲情したって言うのか?」
「009!」
 襟首を掴まれ、椅子から引きずり上げられていた。間近に射殺すようなジェットの目が
あった。ジョーはそれを真正面から受け止めた。無表情に怒りの形相を見つめ返す。
 やがて嘲るようにジェットが言った。
「そりゃお上品で、ノーマルなお前さんから見りゃあ異常だろうさ。ところで正常人様、
お前のハニーといとしの我が子の居所は掴めたのか?」
「探したりなんかするもんか。フランソワーズは彼女の意志で離れていったんだ」
「お強いこった」
 吐き捨てるように突き放される。ジョーの身体は椅子には着地せず、そのままテーブル
脇に突き飛ばされた。身体を支えようと伸ばした手がテーブルの端を掴み、表面が傾ぐ。
皿と空の缶がこぼれ落ち、床の上で酷い音をたてた。
 しかしジェットは立ったまま、それを見つめていた。ジョーは傍らで割れた皿の破片を
押しやりながらジェットを見上げた。
 彼らは再び互いの視線を縛り上げ、沈黙のうちに対峙した。それは決して意地の比べ合
いなどではなく、彼らは戦うように互いを見つめた。
「004を初めて抱いたのは?」
 ジョーは静かに落ち着いて、そしてそれが数学的な単純な質問であるかのように尋ねた。
「どうして004を抱いたんだ?」
 ジェットは唇を真一文字に引き締めたままだ。
 ジョーが重ねて尋ねる。
「なんとなく、だった?」
「ノー」
「君の、意志だったんだな?」
「そうだ」
 ジョーが視線に少しだけ優しい色を滲ませた。
 それに強く返しながら、ジェットは言った。
「抱きたかったんだ」
「『ヒルダ』のことは知っていた?」
「少し」
「どうしたんだ?」
「あいつの首にかかっている鎖の指輪。彼女の指輪だ」
「まさか、外せ、と言ったんじゃ…」
「ねえよ。あいつはそれを握り締めた。俺に見せないように。彼女に俺を見せないように」
「…で?」
「……あいつは、右腕がなかった」
 ジェットはテーブルの上に倒れているもう一本のワインを見た。しかし手は伸ばさず、
静かに息を吐きながらゆっくりとソファに身を沈めた。そして腕を組み、目を瞑った。ジ
ョーも少しだけ身体を起こし、椅子に背をもたれて床の上に座り直した。それを待ってい
たようにして、ジェットが語り始めた。
「あの世代で受けた最後の演習だ。大掛かりな演習だった。東南アジアの湿地帯、そこで
本物のゲリラ戦に巻き込まれた。退避の指令が001と003の耳に届いた。でも俺たち
は動けなかった。ちょうど政府軍とゲリラ軍の間にいた。俺たちは人を傷つけたくなかっ
た。銃声が爆発音が止むのをひたすら待っていた。流れてくるミサイルに応戦して、近づ
く兵士をなるべく傷つけないようにどこかへ追いやって、あいつ、大活躍だったよ。レー
ダーアイがついているとは言え、あいつの腕は凄かった。
 日が暮れかけていた。爆音が止んで、銃声もたまにぱらぱら聞こえる程度になった。0
03が言った。政府軍の掃討がもう完了する。人形みたいな真っ青な顔で、そう言った。
これから南西の河岸まで移動します。そこで回収されたし。通信を終えて、彼女は吐いて
いた。朝から禄に食ってなかったから、出るのは胃液だけだった。俺は003の背中をさ
すった。その時、すぐ真横で銃声が起こった。正直、ビビった。人の気配はなかったし、
吐いてたってったって003が気づいてないはずがねえのに。二人同時に、銃を構えて振
り向いて、……でも、最初はまだよかった。004が倒れていた。厳しい顔で腕を押さえ
ている。不意を突かれたんだと思って、その奥の茂みに銃口を向けた。すると今度はいく
つもの弾が俺の頬を掠めた。パラパラって髪が何本も散った。俺はびっくりして、もう、
銃を構えるどころじゃなかった。硝煙が立ちのぼっているのは、004のマシンガンアー
ムからなんだ。それからすぐに思った。裏切ったのか、って。
 突然、003が駆け寄って、004の左手に飛びついた。やめて、って叫んでた。俺は
004に銃を向けた。003に退けと言った。003は振り向いて、違う、と言った。止
めて、神経が焼けている。また不意に、そう、あの腕だけが別の生き物みたいに、004
の右手が動き出した。俺も咄嗟にその腕にしがみついた。やめろ、と叫んだ。もう見つか
るだの構わず叫んでいた。やめろ、004! 右手は凄い力で暴れようとした。嫌な音が
して弾が装填されたんだって分かった。俺はまた叫んでいた。そしたら004は003を
振り飛ばして、左手を振り上げた。レーザーナイフの手を、あいつは、自分の腕に振り下
ろそうとした。俺たちは叫んだ。003が必死に左手にしがみつこうとしていた。
 すると突然、支えがなくなって俺は顔面から泥臭い草地に突っ込んだ。何だ?って、慌
てて顔を上げたら、あいつの動きが全部止まってた。雷にでも打たれたみたいに、大きく
痙攣して、動かなくなった。で、右腕は? 右腕は消えちまってたんだ。スッパリ切り取
った見たいに、きれいサッパリなくなってた。もう安全だ、と声がした。001が草むら
の中で上半身を起こして、こっちに手のひらをかざしていた。後で001に問いただした
ら「断ち切った」って言った。テレポーテーションみたいなもんかな。とにかく右腕の接
合部を丸々切り離して、ついでに意識のスイッチもオフにしちまった。その方がよかった。
001の指示で、俺は004を抱えて先に合流地点に飛んだ。作りかけの基地があって、
そこで奴は緊急手術を受けた。それから俺たちまとめて別基地に輸送された。
 004は目を覚まさなかった。俺は手術の様子も見た。あいつの身体と兵器はなかなか
適合しなかった。剥き出しの右肩…腕の付け根は…白かった。血の色をなくした肉が、つ
るんと丸くあるんだ。科学者たちが腕を完全に除去するかどうかで揉めていた。俺は何度
もあいつの部屋に忍び込んだ。あのクソジジイどもが揉める前に、あいつは自分で、その
腕を切り落とそうとしていた。俺は、腕が残っていてよかったと思った。あいつに少しだ
け腕の残っていることが嬉しかった。あの三インチに満たない腕の存在が愛しくて仕様が
なかった」
 とうとうジェットは最後のワインの封を切り、口づけに勢いよく飲んだ。赤い液体で喉
を潤し一息つく。それから、再び話し出した。
「あいつはよくうなされた。普通の、俺らが暮らす普通の部屋に移動されてからも、よく
うなされてた。003がほぼ毎晩聞こえるって、疲れた顔をしていた。どうしてやれるの
か、付き添ってやりたい。一度、彼女の手を握って『ヒルダ』って呼んだことがあったっ
て言ってた。
 うなされはしてたけど、あいつも少しずつ起きるようになった。蟻走感が絶えないとか
言った。腕があるような気がするのが一番嫌だって…、はっきりそう言った訳じゃなかっ
たが、そんな風に感じてたらしかった。この前までその先に付いていたのは、人を傷つけ
るための腕だった。本当なら恋人を抱き締めるためにあった腕が、もう血の気もない三イ
ンチの肉塊が包帯に包まれてた。
 義手の試験は何度も行われた。神経を繋ぐのがとにかく難しいって話だった。試験のた
びにあいつの腕は擦り減らされていった。とにかく安定しなくて、よく暴走してた。俺は
よく、それを押さえ付けてた」
「後ろから抱き締めていたんだね」
 静かな声が滑り込んだ。ジョーの穏やかな口調が自然に言葉を継いでいた。
 ジェットはゆっくりと目を開いた。闇の中、ジョーは自分のつま先を見つめている。ジ
ェットは組んでいた腕を解き、右手で軽く目の上を覆った。
「俺は何度もあいつの耳元に囁いた。大丈夫だ、大丈夫だ、そればかり繰り返していた。
名前を呼んでやりたかった。でも俺は、あいつのナンバーしか知らなかったんだ。悔しく
て抱き締めた。このまま腕の中で潰してしまえたら楽になるんじゃないかって思った。あ
いつは恋人の名前を呼んで、まるでそれが罪みたいに、すまない、と繰り返した。散々繰
り返して、死ぬ、って、ほんと死にそうな声でさ、苦しそうに、あいつ……」
「死ぬ」
「死ぬ、って……」
 ジョーはテーブルの上で半分中身をこぼしたマグを、最初にジェットがコーヒーをいれ
てくれたマグを取り上げた。その黒い表面に、自分の黒い影を落とし、彼は呟いた。
「…死ぬな」
「…死なないでくれ」
 ジェットは指の隙間から暗い天井をのぞいた。
「心臓の音が聞こえた。人工の、機械の心臓の鼓動が、でも、ちゃんと伝わってきた。ゆ
っくり、相手の呼吸が整っていくのが分かった。それまでうるさいくらいだった脳波の乱
れが静まって、ゆっくり力が抜けていった。俺が恐る恐る手を離すと、まるで物みたいに
身体が転がった。俺はベッドの上に抱え上げて、服を脱がせた。そこで初めてあの指輪を
見た。ヒルダ……。
熱が高かった。右肩さえ、体温が上がっていた。顔が上気していて、首筋が赤かった。そ
こここが汗ばんでいた。キスをしたんだ。肩に。右の肩の、丸みにもキスをした。生身の
ところ…ちゃんと生きている。合金との継ぎ目も、少し赤くなっている。軽く炎症を起こ
しているんだ。でも生きてた。その人工物だって、生きてた。生きるために。あいつを苦
しめるけど、あいつを殺すためじゃなくて……」
 言葉が見つからないのか、もどかしそうにジェットは言葉を途切れさせた。ジョーはそ
れを横目に軽く見て、促すでなく黙って待った。
 やがてジェットの目の上に乗せていた腕がパタリと落ちた。彼はソファに座り直した。
「あいつの目が開いていた。俺を見ていた。何だかよく分かっていないような顔で、きょ
とんとしてた。と思ったら左手が素早く動いて、指輪を隠した。俺たちはそのまま見つめ
合っていた。俺は、急に悪いことをした気になって、あいつに服を着せ直した。ボタンを
留めようとしたけど、手が震えてうまくいかなかった。悪いけど自分でやってくれって、
笑おうとしたけど、おどけるのがその時、すげぇ嫌になって、結局、悪い…ってだけ言っ
た。
 そんな様子が、全部記録されていた。監視カメラの存在だって知っていた。でも俺はあ
いつの身体を見ていたかった」
 004、と小さくジェットが呟いた。
「名前を知ったのは、それから二十年も後だ。俺たちは眠らされて、起きてみたら二十年
経ってて、いつの間にか俺たちのお仲間が増えていた。あいつには性能の良い腕が今度こ
そ取り付けられた」
 ジョーは自分の右手を見た。手の中でスナックの最後の一つが潰れていた。
「僕と出会って…あれより後だったんだね」
「最初は拒まれた。すげえ頑固でさ」
「精神的な部分が語られていないよ。どうして好きに……」
「待てよ、話がズレてるぜ。どうして抱いたかって話だろうが」
「どうして……」
 ジョーは手にしていたマグを床の上に置くと、膝を抱え、その間に顔を埋めた。くぐも
った声が、どうして、と呟く。
「…ねえ」
 苛ついたような声が尋ねる。
「どうやって抱くのさ」
「…ジョー、もう止めようぜ」
「ジェット!」
 ジョーは急に立ち上がった。勢いでマグが倒れ冷めたコーヒーがこぼれ出した。彼は乱
暴に床を蹴り、ジェットの前に立った。右手が拳を握っているが、震えるばかりでどうに
も動かない。唇を噛み締め、目は今にも泣き出しそうに見えた。
 ジェットは諭すように言う。
「俺たちは悪酔いしたんだ」
「…………」
「眠ろう。ベッドを貸すから…」
 ジェットも立ち上がり、ジョーの右肩に手を置いた。その腕をジョーが握り締めた。指
が縋るように強く食い込む。不意に痛みが走った。見るとジョーが腕に噛み付いていた。
ジェットは左手でジョーの頭を叩くと、右手でジョーの身体を抱えるように、寝室へ引き
ずって行こうとした。
「トイレ…」
 ジョーが辛うじて主張した。ジェットはため息をついて方向転換した。



 酒浸しになったジョーの服を持って、ジェットは寝室から出て行った。ジョーは裸のま
ま取り残され、所在無さげにベッドの端に腰を下ろしていた。
 ジェットはさっきから一言も口をきかない。黙って服を脱がせようとするので、ジョー
が慌てて押し止どめ、自分から脱いだ。下着も、と指さしてくるので渋々それも脱ぐと、
それを小脇に抱えて出て行ってしまった。床を伝って、低い振動が聞こえてきた。ドラム
の回る音。洗濯機をかけたのだ。戻ってきたら、一応礼を言わねばなるまい。
 しかし戻ってきたジェットを見て、ジョーはそんなことをすっかり忘れてしまった。少
し頭が惑乱した。ジェットは何も着ていなかった。彼は何でもないようにスタスタと歩い
てくると、ジョーの座る反対側からベッドの中にもぐりこんだ。ジョーが振り向き、ただ
その様子を眺めていると、初めて「ほら」と声をかけられた。
「入れよ」
 戸惑いためらうジョーの腕を引いて、ジェットは彼をベッドの中に入れた。
 背中合わせに、かすかに相手の体温を感じながらジョーは息をひそめていた。
「……あいつの右腕は結局切除された」
 極めて感情なくジェットが言った。ジョーはジェットの言葉に耳をすました。
「それから初めてあいつの裸を見たときは、…何て言うんだろうな。動揺したって言うか
…勿論同情じゃねえんだけど、悲しいってのか……改めてハッとしたんだよな。どうしよ
うもなくなって……。いかにも生身らしい色をした機械の……、でも俺は…」
「好きなんだね」
「馬鹿」
 ジェットが存外に強く言った。
「あたかも俺一人がそうみたいに言ってくれてるけどよ、そうなんだろ、お前も」
「…………」
「俺たち仲間の皆…」
「…君とは違う。君のはもっと特別だ」
「セックスするから?」
 背中の隙間から冷たい空気が流れ込む。エアコンを切ってから急激に部屋は冷えていっ
た。ジェットは肘枕をすると、壁の上の埃の溜まったところをぼんやりと見つめながら言
った。
「大したことじゃねえんだよ、そういうの」
 ジョーは沈黙していた。どうとでも解釈可能な、つまり大いに誤解のできる今の言葉を
じっと考えた。
 が、ジェットは今の言葉に満足したのか、逆にジョーに尋ねた。
「お前はどうしてフランソワーズを抱いた?」
 ジョーは身体を強ばらせたまま沈黙していたが、ゆっくりと、途切れ途切れに言葉をつ
むいだ。
「女が…欲しかった。普通に。……何かが、怖くて……すがった。彼女に。……受け入れ
てくれるだろうと分かっていた。…それが望みだったから。フランソワーズも……」
「子供のことは? 大切じゃなかったのか?」
「どうしたらいいか分からなかった。自分が父親だというのが、正直、怖かった。どうす
ればいいか…分からないんだ」
 ジョーの瞼が重たそうに瞬きをした。
 ふと背後で気配がし、肩が引き寄せられた。寝返りをうったジェットが少し身体を起こ
してこちらを見ていた。その口が開く前に、ジョーが言った。
「005が言ったことがあった」
 ジェットの顔が神妙になる。
「002は004が好きだ、って」
 ジョーはかすかに困ったような微笑を浮かべ、囁く。
「一世紀の間解らなかったんだ。一晩で全部、語り尽くせる訳がないね」
 そしてジェットの手から逃れるように背を向けた。ジェットももうそれ以上質問を重ね
ず、重たい瞬きをした。やがてジョーの瞳が閉じた。暗闇の中で赤い瞳が閉じて、途端に
何か一つの強力な力が失われたように空気が緩んだ。ジェットはため息ではないが、鼻か
ら息を吐き、自分も彼に背を向けると、いつの間にか目を瞑った。



 肌の表面からじわじわと目覚める感覚がして、ジョーはうつらうつらと、自分では目を
開けた気になりながら小さな伸びをした。小さく声を漏らし首を伸ばすと、額が堅い壁に
当たった。目が見えないと思い、何度か瞬きをした気になったとき、ようやく目が覚めた。
今度こそ瞼を開き、目の前の温かな肌に、彼はようやく額にぶつかっていたものの正体を
知った。知った途端、少し緊張し、また少し腹立たしくなった。ジェットの腕が軽く自分
を抱き込み、自分の額は相手の胸に押し付けられていたのだ。昨夜、寝る前に彼の言った
「当たり前」という言葉が蘇る。今までこういう朝は当たり前にこうしてきたのだろう。
「何も朝から思い出すことないじゃないか…」
 口の中で呟く。朝といっても、窓の外は暗かった。見上げる空は灰色というよりもどす
黒く曇っていて、そこから灰燼が降っていた。昨日とは違う、おそらく風向きが変わった
からか、軽い白い灰が街に降りそそいでいた。この季節にこの色は随分珍しい。まるで雪
が降っているようだ。部屋の空気はひどく冷たく、ジョーは暖房をつけようと、そっとジ
ェットの腕から抜け出た。この街でも供給される電力は制限されていると聞いていたが、
しかしこの寒さは異常だ。毛布に包まっていた素肌は空気に晒された途端、ピリピリと驚
いたような感触を得た。生身の身体だったらば鳥肌が立っていただろう。ついでにジェッ
トの服を借りよう。そう思い、下ろした足が冷たい床にひたりと吸い付いた。
 と。ジョーはベッドから立ち上がろうとして、少し尻を持ち上げただけでまた腰を下ろ
してしまった。長い腕がジョーの腰に絡み付いていた。何の悪戯だい、と振り向くと、ジ
ェットがその鳶色の瞳に笑みを浮かべてこちらを見上げている。そして目をしっかりと合
わせたまま、ジョーの腰にキスを落とした。
 急なことで、ジョーが思わず悲鳴じみた声を上げると、ジェットは声に出して笑った。
「002!」
「番号で呼ぶなよ」
 ジェットは押しのけようとしてくる肘を片手であしらいながら、尚もジョーの腰にキス
を落とした。跡でも残そうとするかのように唇で強く吸い、声を引き出そうと舌で探る。
舌の感触が熱い。ジョーは身震いした。
「ジェット、やめ…やめろ」
 昨日はどこまでも冷徹に貪欲に答えを欲し睨みつけてきた目が、簡単に潤む。早くも頬
を上気させ身体を震わせる様子に、ジェットは笑って答えた。
「面白いからやめねー」
「やめろ。……やめてくれ、本当に!」
 ジョーが語気を荒げた。ジェットが思わず唇を離して見上げると、ジョーの目から大粒
の涙が零れていた。ジョーは恥じるように涙を拭ったが、それは堪えきれず幾粒もがシー
ツに染みを作った。
 必死で涙を止めようとするジョーを、ジェットは無慈悲に引き倒した。覆いかぶさり真
上から見つめてくるジェットの表情には欲情や興奮といったものは見られず、しかし彼が
それを目的としてジョーの身体を腕の下に敷いたのは明白だった。
 ジョーが待つと、それに応えるように口づけが降りてきた。唇は静かに重なった。思っ
たより上品に。おとなしく受けると、角度を変え、熱を分け合い、紳士的に離れる。
「仲良く飲んだくれることもできないのに…」
 気持ち良さそうな表情の中で、目だけ、少し堪えるように、眉間にかすかな皺を寄せジ
ョーが言った。
「普通に朝の挨拶をしたり、普通に朝食をとったり……普通に道を歩いて、多分、そうい
う気分になればちょっとは手を繋いで…」
 ジェットは黙って聞いていた。
「買い物をしたり、たまに相手のために食料を買ってきたり、……昼寝をしててもいいん
だ。相手が帰ってきたのに気づいたのが、もう食事の用意ができた夕方だったりしても…
…。時間がきたら…別れる。仕事があるから。空港まで送っていったり、…途中で別れた
り……」
 ジョーが困ったようなような笑顔を浮かべる。
「君と僕は、当たり前のことができないのに」
 ジェットは言葉を返さず、首筋に顔を埋め柔らかな、上質な人口の皮膚を丹念に吸い、
手ではその身体をまさぐった。
「あぁあ…」
 嘆息がジョーの口から漏れる。
「当たり前のことが…できないのに……」
 触れる指から体温が溶け合い、上昇してゆく。身体の奥から湧き出るように、少しずつ
肌が汗ばむ。ジョーは足を絡みつかせようとし、ふと止まって耳を澄ました。腰へ下降を
始めていたジェットの手が止まり、ふと彼は嘆息しながらジョーの上にのしかかった。汗
ばんだ互いの身体が密着した。ジェットの重みが身体に馴染んでゆくのが心地よかった。
ジョーは穏やかな顔で天井を見上げた。
「……ジェット」
「…ああ」
 短く、穏やかな言葉のやり取りの直後、彼らは文字通り跳ね起きた。
 ジェットは飛びかかるようにクロゼットの扉を開け、ジョーはベッドを蹴って隣の部屋
に飛び出した。
「009!」
 ようやく目的のものを引っ張り出したジェットが呼ぶと、開きっぱなしのドアから腕が
伸びて、ジェットの投げ渡したものを受け取った。
「下はそうでもないけど、空は凄い数だ。飛んで離脱するのは無理だな。君の加速の限界
は?」
「天は二物を与えずってな。百年経ったのにマッハ5が限界だ」
「上出来。加速して、とにかく郊外へ」
「風の向きが変わったと思ったら、こういうことだったんだな。総攻撃にはちょっと早い
んじゃねえか?」
「今更!」
 素早く着替え終わり、懐かしくも見慣れた防護服姿にマフラーをなびかせジョーが飛び
込んできた。
「急ごう。まだ死ねない」
「ああ」
 二人は窓を打ち破り、白い灰の舞う空に身を投げ出した。途端に空から降る数十の爆音
が二人の身体を包み込んだ。ジェットがジョーの身体を抱えるようにして地上に降り立っ
た。
「あいつら、マジでここもやっていくつもりだ」
 ジェットが戦闘機の重たい腹に埋め尽くされた空を見上げ、忌ま忌ましげに呟いた。
「さあ、どうしようか。とにかく001と連絡をつけなきゃ。旧海軍基地?」
「そこがやられてなきゃな」
「もし駄目だったら、カルヴァリー墓地で」
「オーケー。じゃあ生きて会おうぜ、009」
「ああ。002」
 ジェットは陽気に笑い、ジョーもいつもの困ったような笑顔をしてみせ、互いに拳をぶ
つけ合った。
 ぶつけ合った拳が離れた瞬間、二人の姿はかき消えていた。そしてすぐ、それを追うよ
うに無数のミサイルが空から降りそそいだ。
 炸裂する白光、一瞬遅れての轟音と衝撃波。それらは近隣のビルも、二人がやり切れな
い夜と、不機嫌な朝を迎えたあの部屋も破壊し、やがて何もなかったかのように、





「くそったれ」





 誰かに呟かせる程に、何もかもかき消してしまった。



2099年設定。

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