フックとティンカーベルの寝物語「声を出すなよ。003に聞こえる」 「…構わないさ」 * 書き物に疲れてペンを置き、椅子の背にもたれかかって思い切り伸びをした。 部屋の明かりはライトスタンド一つきりだが、それでも明るすぎるように感じる。この 目であれば、おそらくこんな明かりなどなくとも物くらい書けるはずだ。人離れしたと実 感させられるのは、何も戦闘時に限らない。手を伸ばし、スタンド横の小さなスイッチを 切った。途端に性能のよい目は間断なく暗順応し、決して暗くない視界が展開された。調 節はできない。見えなければ困る。そのように作られている。 ジョーは椅子の上で膝を抱え、腕の中に顔をうずめた。夜が懐かしい。寂しさと孤独を のみ募らせる、あの暗い夜が懐かしかった。今、この夜はジョーから世界を隠してはくれ ない。 「見える……」 手のひらの皺までくっきりと見えた。ジョーは両手で顔を覆った。 海辺の邸宅は静まりかえっていた。夏、周囲を取り巻いていた熱そのもののような生き 物の気配も静まり、今は虫どもの鼻歌と無機な砂の呟きがひそやかに感じられるだけだ。 先の日、西から東へ雨が通り過ぎ、以来めっきり夜は冷える。昼間はその強い日差しが気 温を上げるものの、空気は確かに秋へ移行し始めていた。 椅子の上で息をひそめる彼も、かすかに聞こえる潮騒に耳をすませた。ひときわ大きな 波が浜辺に打ち寄せた。風が出ている。 ジョーは顔を上げた。 窓からはさやさやと月の光が射す。中天に近い月の光だった。 ジョーは窓の鍵をかけていなかった。風が強く窓枠をガタガタと揺らす夜も、大雨の夜 も、彼は鍵をかけなかった。だが開けはしない。鍵はかけないが、開けはしない。ジョー は決して自分から窓を開けようとしなかった。 今夜も鍵は開いていた。しかし窓はきっちりと閉まったままだ。時折風に打たれてガラ スが鳴った。ジョーはふと考え込むような顔をし、次にため息をついて「馬鹿馬鹿しい」 と呟いた。 彼は椅子から足を下ろし、静かに立ち上がった。眠る前の少しあたたかい足の裏が冷た い床に吸い付いた。彼は窓の前まで来ると、一呼吸悩んで、わざとぞんざいに片手を突き 出し窓を押し開いた。 栗色の髪が、さわり、と揺れた。 清涼な風が勢いよく部屋に流れ込む。ジョーは窓辺にもたれ、なぶられるまま潮風に髪 を揺らす。暗く沈む彼方から潮騒が打ち寄せ、そして海の上、空高くは小さく丸い月が輝 き、少し低い雲が水平線の向こうから流れ来ながらたまに月を隠した。すると月の隠れた 雲は、濃い緑色を透かし淡く光った。 雲間を見つめ、我知らずため息をつくジョーの頭の中に、不意に声が響いた。 『誰をお待ちかねだい、ウェンディ?』 「ウェンディ?」 ジョーは苦笑して答える。 「さあね。ウェンディが日本人とは聞かないけど」 声はふん、と息をつき 『成る程、ロシア人とも聞かないな』 「だろうさ」 ジョーは肩をすくめ、声に出して笑った。 「起きたんだね、001」 『さっき目が覚めたんだ。夜中でつまらないと思ったら君がこの寒い中、窓を全開にして るんだもの。雲の間を探すように見つめている』 「こんな夜は特に探してしまう。あの影に隠れて、実はもうすぐそこに来てるんじゃない かって」 『ロマンチストすぎない?』 「相手はピーターパンだよ、これでも足りないくらいだ」 『ロマンが?』 「思いが。勢いが。押しが。いっそのこと好きだと言って首にむしゃぶりついて飛べなく してやろうかな」 『声を出すなよ。003に聞こえる』 「…構わないさ」 首を捻り雲間を見つめるジョーは苦いものでも噛むような顔で、唇の端だけ歪めて笑っ た。彼は同じ屋根の下に眠る彼女のことを思った。そう、本来ウェンディと呼ぶなら彼女 こそ最適のはずだ。しかし彼の思いつく限りウェンディと呼ばれるのは、ビールとジャガ イモの旨い国に住む、背中に哀愁を背負いながらトラックを運転する三十路の男なのだっ た。そして彼はピーターパンを思った。 羽が無くても自由自在に空を飛べる、陽気で、短気で、それゆえにいつも損をしている ことに気づいていない、いつまでも若者らしい愚かさが抜けない、飛ぶ力を得た代わりに ネバーランドに閉じ込められた、強くて、弱くて、哀れで、愚かで、滑稽で、がさつで、 乱暴で、それでも愛しいとしか言いようのない彼のことを思った。ハーモニカの上手い彼 を思った。自分を甘ちゃん呼ばわりした彼を思った。そのくせ自分の詰めの甘さ故に命を 落としかけた彼を思った。乱暴な遣り方で敵を撃退した彼を思った。初めて出会った仲間 である彼を思った。そしてその時の言葉を思い出した。 「……段々、腹がたってきた」 ジョーはポツリと呟いた。 『その割には幸せそうな顔をしているけど』 「そう?」 隠れていた月が顔を出した。ぽっかり空いた小さな空に、それは地上全てを遍く照らそ うと煌々と輝いていた。 「見える……」 何もかも見える。しかしピーターパンの姿だけがない。彼だけがいない。 「……次はドアの鍵も開けておこうかな」 彼は口を噤み、そして、もう寝るよ、と小さな声で言った。 『窓を開けたまま寝て風邪をひいたら、お前のせいだ責任を取れって言ってやればいいん だよ』 「風邪がひけたら、ね」 素敵なアドバイスいたみいるよ、と言うとイワンが意識を退く最後の小さな声で、おや すみ、と返した。 話を終えた途端にシャツの下で鳥肌が立った。風が冷たい。海を渡る風、ピーターパン の住む国とこことを隔てる海を越えて吹く風だ。 そりゃあ正確には、更に大陸を一つ隔てなきゃ、彼のいる街には届かないんだけどさ。 ジョーは顔を伏せた。本当に、少し眠たかった。 やれやれ、今夜はいい夢が見れそうだよ、 「ジェット」 そして窓を閉め、掛け金を下ろした。 小さな音がひとりぼっちの部屋に落ちた。 カチ、リ。 次の夜から、また窓の鍵は開いていたという話だけど。 |