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そして僕らは大いに歌う防護服を脱ぐこともできなかった。 深い緑の服に赤いマフラー。この姿で自分に課せられた重苦しい運命を感じるのも、この服を脱いで神に見放されたこの身体を直視するのにも疲れていたし、それに飽きていた。 不謹慎にも慣れた、とも言える。 このまま人を殺す道具になる。自分はこの後作られる量産型の為のテストケースということだから、さながら伝説の軍神か、始祖か。一度失った命と思えば、そのような自暴自棄にも陥りそうなものだったが、彼が慣れた運命とは人と、人あらざるものとの間で悩み続ける運命だった。俺がそれでも人でありたいと願い、そのための希望を捨てないでいられるのは、ヒルダ、君のお蔭だ。 ハインリヒは胸元から、細い鎖に繋がれた指輪を取り出した。エンゲージリングと呼べるほど高価なものではなかったが、それでも彼が彼女に送った精一杯の真心と誓いの証だった。彼女の指を思い出させる小さなリングは鋼の手のひらの上できらりと光った。 大丈夫だ、と囁く。忘れやしない。 と壁の横の小さなスピーカーが唸り、雑音の中から、これか、と呟く声がした。 『おーい聞こえるか、004。俺だ。開けてくれ』 陰りというものが微塵もないこの声。そんな若者の声を、彼はここへ来て初めて聞いたのだ。彼の故国では、そんな陽気さは死に絶えていた。 『おい聞こえてるのかよ。まさか寝てんじゃねーだろうな。開けろー。開けてくれって』 「……五月蝿いな」 ハインリヒは片頬に笑みを浮かべながら独りごち、ベッドから立ち上がるとインターホンに向かって「静かにしないか」と早口で囁き、ドアのロックを外した。センサー反応を受けすばやくスライドしたドアの向こうに立っていたのは、思ったとおり、と言うか彼以外にいない。長身に同じ防護服を身につけ、すらりと高い鼻に鳶色の瞳を長く明るい髪で隠した彼、002だった。 「早く開けろよ」 「少しは静かにしたらどうだ。緊張感もあったもんじゃない」 「あんた、この期に及んで緊張感とか持ちたいのか? 今更だろうが」 そんな応酬をどうでもよさそうに投げ、002は我が物顔でベッドにどすんと腰をおろした。 「……ふう」 「ため息をつきたいのは、こっちなんだがな」 「あ、これ返しにきた」 人の話などろくに聴かない様子で、002は右手を差し出す。その手には古い本が一冊握られていた。 「ったく、あんたの国の人間は、どうして一々事を小難しく考えたがるんだろうな。折角途中までは面白かったのに、いきなり何ページもぐちゃぐちゃ考え出すんだ、興が殺げたぜ」 「面白くはあったのか?」 「………ううん」 002は眉間に皺を寄せしばらく悩んだ後、少し、と言った。 本の表紙には彼の母国語とは違う文字でタイトルが打たれている。もちろん内容も全て異国語……ドイツ語で書かれていた。頭の中に翻訳機を内蔵された彼らには、既に言語の壁と言うものが存在しない。 「前のがよかったよ。ええと……最初に借りたやつだ。戯曲の」 「『三文オペラ』?」 「そう。あの終わり方もどうかと思うけどよ、歌が面白いからいいな」 彼は素直にいいな、と言い、笑った。 善きにつけ悪しきにつけ002が見せる素直な感情に、ハインリヒはよく新鮮な気持ちを覚える。 「別に馬鹿にするわけじゃないが」ハインリヒは前置きをして喋り始めた。「お前さんが本に興味を示すとは、正直意外だったよ。少なくとも一冊で投げ出すと思った」 「ひでえな。確かに…分かりづらいのが多いけどよ」 「そう。面白くない、分からないと言う割りにどんどん借りて読むから感心してたんだ」 「はは、褒められた」 「歌を歌えと言われたのには、困ったけどな」 「いいじゃねえか、歌えよ」 ハインリヒが苦笑するのを見て、002は楽しそうに笑う。そしてサイドボードから一冊本を取り上げページを捲った。 「『海賊ジェニー』じゃない……ええと、これだ『人間の努力は長続きしない』」 それを聞いたハインリヒは思わず吹き出した。 「おい、何だよ。気ぃ悪いな」 「いや、すまん」 「そりゃあ見かけからして俺は不良だけどよ。……ちぇ、まだ笑ってやがる。ああ実際長続きしなかったよ。どんな職も。真面目に働くってのはしたことなかった。……でも、ここにいる限りそうじゃねえな。奴らの努力はたゆみない。俺が空を飛んで、お前が膝からミサイルを出す。彼女の目と耳は、もう尋常じゃねえ。それにあの赤ん坊も。奴らはこれ以上……何をするつもりなんだ」 「…神様でも追い抜こうってんだろう」 「神様だって? はっ」 神、と聞いた瞬間、002は今まで見せたことのないような厭世的な眼で床を睨みつけた。そして唇を歪め、吐き捨てるように言った。 「こんな世界に神なんか……いてたまるかよ」 それきり部屋は静まり返った。不意に降りてきた沈黙の下で、彼らは考えていた。 彼らサイボーグ計画が一時凍結となり、彼らサイボーグ戦士四人もしばらくの間コールドスリープに入れられると告げられたのはつい昨日のことだった。そして今日の午後にもそれは実行される。その耳でいち早くそのことを知った003は部屋に閉じこもったまま出てこなかった。001は何も言わない。002は昨夜遅くハインリヒの部屋を訪ね、本を一冊借りていったのだった。 人間の努力が本当に長続きしないものであれば、彼らは眠ったまま忘れ去られるだろう。そうでなかったとき、彼らは再び目覚めそして今度こそ人を殺すため戦地に送り込まれるはずだった。どちらにせよ待ち受けるのは唾棄すべき未来だけだ。002は踵を揺らし床を鳴らした。 「頭使って…生きようったって…頭で飼えるのは虱だけ」 唐突にハインリヒが低い声で歌いだした。この詞は、さっき002がリクエストした『人間の努力は長続きしない』。 002がまじまじと歌う姿を見つめると、ハインリヒの頬に知らず赤みが差したが、彼はぶっきらぼうに続けた。 「人はこの世の誤魔化し全て…気がつくほどに強くはない」 「……何だ、知ってるじゃねえか、曲」 「古い歌だ。俺が生まれた頃に流行ってた…古い流行歌さ」 「面白いよ……ええと、タタタッタッ……ドの音から始まったか」 「…さあ」 「さあ、じゃねえよ。もういっぺん歌え」 仕方なくハインリヒが鼻歌で音程をなぞると、002は真剣な顔で目を瞑り、そのかすかな歌声に耳をすませた。 「成る程な。じゃあ、こうだろ……計画立てて…わかったつもり…裏まで読んでも両方とも外れ!」 「この世はそんなに悪くはないのに…もっと欲しがるのは悪い癖」 ハインリヒが続けると002は満面に嬉しそうな笑顔を浮かべ、そうそう、と膝を叩いた。そしてハインリヒの小声に被さるように歌いだした。 幸せ求め、駆け出すときも 走りすぎて幸せを追い越すな 人はとかく欲にくらんで 努力のつもりも思い込み! 「いいな! 歌を歌うことなんか、すっかり忘れてた」 「ああ……」 ハインリヒもそっぽを向きながらも肯定した。実際、歌など何年ぶりに歌っただろう。恋人の前でさえ、彼は歌ったことがなかったのだ。 002はまだ興奮したようにさっきのフレーズを繰り返していたが、不意にハインリヒに向き直って言った。 「サンキュー。これでいい夢みながら眠れそうだ」 一瞬、ハインリヒは言葉に詰まった。そう長い眠りだ。夢を見ることも忘れてしまいそうな深く、長い眠りに彼らはつかなければならない。 が、次の瞬間には唇に例の皮肉な笑みが浮かんでいた。 「そりゃあよかった。俺の方も久しぶりにはしゃいだからな、きっとぐっすりだ」 002は笑い、そしてふと真面目な目をすると片手を差し出した。ハインリヒが躊躇いながら鋼鉄の手を差し出すと、002はもう片手でハインリヒの手を包み込み握手した。 そして手を握ったまま立ち上がり、言った。 「俺は神様なんか信じちゃいないが、まだ希望は捨ててない」 「……ああ。俺だってそうさ」 「よかった」 ふと腕が引かれハインリヒは002に抱きしめられた。戸惑う背中を002の手がポンポンと叩いた。 「あんたが仲間でよかったよ」 ハインリヒもそっと手を伸ばし、002の背を軽く叩いて 「俺もだ」 と低く返した。 やがて二人が身体を離すと、002はまた悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。 「ほんじゃ、ま、泣き濡れる姫君と可愛いベイビーにおやすみのキスでもして帰るか」 「ふん。精々お姫様に嫌われないようにな」 002はドアを開け、外へ出ると立ち止まった。そして振り向いた。 「おやすみ」 穏やかな顔だった。いつもの感情的にくるくる入れ替わる、あの表情ではなかった。ひどく静かで、落ち着いた顔で、一言挨拶をした。 「おやすみ」 ハインリヒが返すとドアが軽い音を立てスライドし、閉じた。 閉じる瞬間、002がかすかにこう呟くのが聞こえた。 「Smak !」 ハインリヒはそれまで002が座っていたベッドにごろりと横になり、胸元の指輪を取り出して、小さく口づけた。 「おやすみのキスだとさ」 皮肉めいた笑顔の下から、笑いが吹き出し、彼は小さく笑った。 独りになって静まり返った部屋なのに、まだ笑いの余韻が残っていた。彼はやれやれと呟きながら、久しぶりの笑顔を浮かべた。 そしてコールドスリープに入る直前の002が左の頬をさすっていたとか、さすっていなかったとか。 古い話だから、と今では誰も話してはくれない。 |